いると、どうにか暖簾《のれん》もかけ続けて行けるし、それとまた妙なもので、誰か、いのちを籠めて慰めて呉れるものが出来るんだね。お母さんにもそれがあったし、お祖母さんにもそれがあった。だから、おまえにも言っとくよ。おまえにも若《も》しそんなことがあっても決して落胆おしでないよ。今から言っとくが――」
母親は、死ぬ間際に顔が汚ないと言って、お白粉《しろい》などで薄く刷き、戸棚の中から琴柱《ことじ》の箱を持って来させて
「これだけがほんとに私が貰ったものだよ」
そして箱を頬に宛てがい、さも懐《なつ》かしそうに二つ三つ揺る。中で徳永の命をこめて彫ったという沢山の金銀|簪《かんざし》の音がする。その音を聞いて母親は「ほ ほ ほ ほ」と含み笑いの声を立てた。それは無垢《むく》に近い娘の声であった。
宿命に忍従しようとする不安で逞しい勇気と、救いを信ずる寂しく敬虔な気持とが、その後のくめ子の胸の中を朝夕に縺《もつ》れ合う。それがあまりに息詰まるほど嵩《たか》まると彼女はその嵩《かさ》を心から離して感情の技巧の手先で犬のように綾なしながら、うつらうつら若さをおもう。ときどきは誘われるまま、常連の学生たちと、日の丸行進曲を口笛で吹きつれて坂道の上まで歩き出てみる。谷を越した都の空には霞が低くかかっている。
くめ子はそこで学生が呉れるドロップを含みながら、もし、この青年たちの中で自分に関りのあるものが出るようだったら、誰が自分を悩ます放蕩者の良人になり、誰が懸命の救い手になるかなどと、ありのすさびの推量ごとをしてやや興を覚える。だが、しばらくすると
「店が忙しいから」
と言って袖で胸を抱いて一人で店へ帰る。窓の中に坐る。
徳永老人はだんだん瘠せ枯れながら、毎晩必死とどじょう汁をせがみに来る。
底本:「岡本かの子全集5」ちくま文庫、筑摩書房
1993(平成5)年8月24日第1刷発行
初出:「新潮」
1939(昭和14)年1月号
入力:鈴木厚司
校正:渥美浩子
1999年12月26日公開
2005年9月27日修正
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