夏の夜の夢
岡本かの子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)弛《ゆる》んで
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)窓|硝子《ガラス》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)紫※[#「くさかんむり/威」、第3水準1−91−11]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ぽち/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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月の出の間もない夜更けである。暗さが弛《ゆる》んで、また宵が来たやうなうら懐かしい気持ちをさせる。歳子は落付いてはゐられない愉《たの》しい不安に誘はれて内玄関から外へ出た。
「また出かけるのかね、今夜も。――もう気持をうち切つたらどうだい。」
洋館の二階の書斎でまだ勉強してゐた兄が、歳子の足音を聞きつけて、さういつた。
窓|硝子《ガラス》に映る電気スタンドの円いシエードが少しも動揺しないところを見ると、兄は口だけでさういつて腰を上げてまで止めに出ては来ないらしい。
「ええ、もう今夜たつた一晩だけ――ですから心配しないで、兄さんもご自分の勉強をなさつて……。」
歳子は自分の好奇な行為だけを云はれるのに返事をすればたくさんなのに、兄の勉強のことにまで口走つてしまつたので、すこし云ひ過ぎたかと思つたのに、兄は「うむ、さうか」と温順《おとな》しく返事をしたので、却《かえ》つて気が痛みかけた。
「兄さん、棕櫚《しゅろ》の花が咲いてますのよ。葉の下の梢《こずえ》に房のやうに沢山《たくさん》。あたし何だか、ぽち/\冷たい小粒のものが顔に当るので雨かしらと思ひましたらね、花が零《こぼ》れるのですわ。」
兄の気持ちを取做《とりな》し気味に、歳子はあどけなくかう云つた。すると兄はすつかり気嫌よく、
「棕櫚の花が咲いたか。ぢや、下を見てご覧、粟《あわ》を撒《ま》いたやうに綺麗《きれい》に零れてゐるよ。」と云つた。
歳子は跼《せぐくま》つて、掌《てのひら》で地をそつと撫《な》でて見た。掌の柔い肉附きに、さら/\とした砂のやうな花の粒が、一重に薄く触れた。それは爽《さわや》かな感触だが、まだ生の湿り気を持つて、情味もあつた。かの女は「闇中《あんちゅう》に金屑《かなくず》を踏む」といふ東洋の哲人の綺麗《きれい》な詩句を思ひ出し、秘密で高踏的な気持ちで、粒々の花の撒《まき》ものを踏み越した。そして葉の緻密《ちみつ》な紫※[#「くさかんむり/威」、第3水準1−91−11]《のうぜんかずら》のアーチを抜けた。歳子は今夜あたりの自分は、兄ともまた自分の婚約の良人《おっと》とも、まるで縁のない人間のやうに思へた。
歳子の兄の曾我弥一郎と、歳子の婚約者の静間勇吉とは橋梁《きょうりょう》と建築との専門の違ひはあるが、同じ大学の工科の出身で、永らく欧洲に留学してゐた。文化人とは恐らくこの二壮年などをいふのであらう。彼等は近代の文化人とはあまりに知性が冴《さ》え返るその寂しさと、退屈をいつも事務か娯楽で紛らしてゐなければならないといふことを十分承知して、そして実際それをやつてゐるほどの文化人だつた。
帰朝後はいよ/\交際を密接にした弥一郎と勇吉とは、寵愛《ちょうあい》してゐるパイプ――ネクタイピン――卓上の一枝の花――を一方は割愛し、一方は愛用し始めるといつた無雑作《むぞうさ》な調子で、兄はその友人と自分の妹の婚約を取計《とりはから》つた。もつとも、二人の男同志の間には、歳子をよその人間には遣《や》り度《た》くない愛惜があつた。兄は折角素直に生ひ立つた妹の愛すべき性格を知らない他人に、猥《みだ》りに逆撫《さかな》でさせたくないといふ真意から、また勇吉は自分が自分とはまつたく性格の反対なこのナイーヴなロマン性の娘を兄に代つて護り育てられる資格と自信を持つたものだから歳子の授受の内容には極めて親切で緊密な了解が働いてゐた。
「あの子は近頃どうしてゐるかね」
「あの子かね。は、は、は、あの子は少し退屈してゐるやうだね。僕が少し詰めて工房へ入り切りだからね。」
何か弥一郎と勇吉が外の会合で顔を合はす場合には、こんな問答が交された。歳子をあの子と呼ぶことに二人はおの/\の立場で、歳子を愛し理解する黙契を示し合つてゐた。
「ぢや、僕の方へ少し寄越《よこ》しとけ、僕はここ三週間ほど仕事の合間だから、相手になつてゐてやれる。」
こんなふうにして歳子は婚約中の良人《おっと》の家と兄の家の間を愛撫《あいぶ》され乍《なが》ら往復した。幸ひ兄はまだ独身だし、良人の家には叔母《おば》がゐたが、この中年寄《ちゅうどしより》は寄人《よりうど》の身分を自認して、何にも差出なかつた。
「一體こんな呑気《のんき》なことであたしいゝのでせうか。」
歳子は飽満に気付いて、あるとき婚約中の良人に訊《き》いた。すると良人は思慮深く考へてゐたが、すぐ明るく眉《まゆ》を開いていつた。
「といつて、なにも強《し》ひて苦労を求めるのも不自然ですよ。まあ、呑気にしてゐられるうちはしてゐるんですね。」
歳子は未来の良人の頭の良さを信頼すると共に、あまり抱擁力のある明哲なものに向つて、なぜかいくらか反感を持つた。
兄の家へ戻つてから間もない日のことである。歳子は兄と一緒に音楽会へ行つて帰りにベーカリーに寄つて、そこで喰べたアイスクリームのバニラの香気が強かつたためか、かの女は家へ帰つて床《とこ》についても眠られなかつた。腺病質《せんびょうしつ》のこどもだつた時分に、かういふ夜はよく乳母《うば》が寝間着の上に天鵞絨《ビロード》のマントを羽織《はお》らせて木の茂みの多い近所の邸町《やしきまち》の細道を連れて歩いて呉《く》れた。天地の静寂は水のやうに少女を冷やした。するとかの女は踏む足の下が朧《おぼろ》になつてうと/\として来た。かの女の口が丸く自然に開いて小さい欠伸《あくび》が出た。目敏《めざと》く見付けた乳母は、「さあ、やつと宵の明星さまがお手を触れて下さいました」といつて、ふうはりかの女を抱き取つて家へ入り、深々と寝床に沈めて呉《く》れた。
それを想ひ出したので、歳子はやはり寝間着の上へ兄が洋行|土産《みやげ》に買つて来て呉れた編糸《あみいと》のシヤーレで肩を包んで外へ出て見た。今更死んだ乳母《うば》に伴つて連れて歩いて貰《もら》ひ度《た》いといふやうな幼い憧憬《あこがれ》の気持ちもなかつたが、さればといつて、兄や婚約中の良人《おっと》にがつちり附添つて歩いて貰ひ度いと思ふ慾求も案外に薄かつた。二人の紳士は歳子の上に現はれる眠りのやうな生理的現象を生理的生活の必然的要求と受取つて、親切に労《いたわ》つては呉れようが、それ以上の深いものを認めては呉れないだらう。それは極めて幼稚な考へ方にしろ、あの乳母のやうに人間の総《すべ》てのものとして、しんからの尊敬と神秘観を持つてかの女を扱つて呉れる素質は兄にも良人にも全然なかつた。たとへ愛の手は同じでも、あの乳母とは感触の肌触りに違つたものがあつた。歳子は生れつきかういふことを感じ分けるに敏感な本能を持つた女だつた。
かういふ時にかの女は兄と良人と、そして自分との間柄を考へて、自分はある意味で非常に幸福な女であるかも知れないが、またかういふ自分の肝腎《かんじん》な気持ちを自分に一ばん近しい人が了解しない以上、自分は却《かえ》つて世の中で一ばん不幸な女であるかも知れないとも考へた。だが、このことは口でいつても判ることではなし、むしろ独りで夜の空気の中を彷徨《ほうこう》する方が焦燥《しょうそう》の感じを少くした。
歳子の兄の住む土地の一劃は、道路まで誰か個人の私有地になつてゐて、道の口々は柵門《さくもん》で防がれ、割合ひに用心堅固の場所だつた。女の真夜中の一人歩きもたいした心配はなかつた。かの女はそろ/\出かかつた月の光を吸ひつゝ木の茂みから来る理智的な湿り気と、大地から蒸発する肉情的な蘊気《うんき》の不思議な交錯の中に漂渺《ひょうびょう》とした気持ちになつて、いくつか生垣《いけがき》について角を折れ曲つた。鋏《はさみ》を入れず古い茨《いばら》の株を並木のやうに茫々《ぼうぼう》と高く伸びるがまゝにした道の片側があつて、株と株の間は荒つぽく透けてゐた。何気なく通るかの女は、同じく何気なく垣の中からすうつと出て来た青灰色のブルーズ着の一人の青年とぱつたり顔を見合して、思はず立停《たちどま》つた。山中で珍らしく人と人とが出遇《であ》つたときのやうな眼の離されない惧《おそ》ろしさと、同時に物なつかしい感情がかの女の胸を掠《かす》めた。月光に明瞭《めいりょう》に照された青年の顔は、端正な目鼻立ちにかすかな幽愁《ゆうしゅう》を帯びてゐた。青年はやゝ控へ目に声をかけた。
「いゝ夜ですね。曾我さんの妹さんでせう。中へ入りませんか。」
歳子はさすがに狐疑《こぎ》した。「これはどういふ青年なのであらう。兄がこの近所に学校の後輩の家があるといつたが、大方それだらうか。」
青年はすぐ「今夜、うちの庭はとてもいゝですよ。」と云つた。
その声はあまりに世の中の普通の言葉に何のかゝはりも持たない、卒直で親しみのある声だつた。歳子は青年の誘ふその声に自然する/\と入つてみる方に気持ちを傾けてしまつた。しかし表面静かに微笑して一応辞退した。
「有難う。でも――」
「懸念なさることありませんよ。」
「でも」
「あんたのお兄さんは僕を知つてられる筈《はず》ですよ。兄さんは僕の学校の先輩です。」
歳子はやつぱりさうかと思つた。かの女はさう了解がつくと妙な遠慮はいらないと思つた。
青年は牧瀬と云つた。その夜から牧瀬の庭を知り、その池の周囲の饗宴《きょうえん》を知つた。それは淡々とした味を持ちつゝ何となく気がかりの魅惑があつて、あとを引いた。
翌朝兄に話すと、兄は、
「牧瀬が帰朝してると聞いたが、やつぱりさうかい。うん、あの男は後輩の中でも天才的な特長があるらしいけど、多少変りものなのだ、根は君子人《くんしじん》だ。さうなあ、交際つて別に毒になるほどのこともないが、利益にもならんね。」
といふ観方で、強《し》ひてかの女を阻《はば》みもしなかつた。
歳子は知らず/\二十日ばかりの間に、間を置いて七八夜も牧瀬の庭に遊びに行つたが、もう婚約の良人《おっと》の家へ帰る期日も近づいたので、いよ/\今夜もう一晩ぐらゐの交際だと思つて、茨《いばら》の垣の門内に入つた。
「今夜あたりはあなたが来さうな晩だと思ひましたよ。月の出が最初お目にかゝつた晩と同じですからね。」
牧瀬は歳子を迎へるなり直ぐかう云つた。
周りは小さい丘や築山《つきやま》の名残りをとゞめた高みになつてゐて、相当な庭園だつた証拠には、楓《かえで》とか百日紅《さるすべり》とかいふ観賞樹の木の太さに、庭師の躾《しつ》けが残つた枝振りで察しられた。歳子の兄の家の屋上庭園から春は雲のやうに眺められるその桜の木も、庭の中にあつて近づいて見るとみな老樹だつた。中央の池泉は水が浅くなり、渚《なぎさ》は壊れて自然の浅茅生《あさじう》となり、そこに河骨《こうほね》とか沢瀉《おもだか》とかいふ細身の沢の草花が混つてゐた。
石橋の架《かか》つてゐる中の島の枯松を越して、奥座敷に電燈が煌々《こうこう》とついてゐた。座敷の中には美術品らしいものが一ぱいに詰つてゐるのが見えた。だが最初の夜から歳子を一番驚かしたのは、一面|茫々《ぼうぼう》と生えてゐる夏草だつた。野菊もあれば箒草《ほうきぐさ》もあるが、兎《と》に角《かく》、庭全体を圧倒して草の海原《うなばら》の感じだつた。
なるべくクローヴアーの厚く生え重つた渚《なぎさ》の水気の切れた辺に席を取つて、牧瀬と歳子はもう二三十分も神経を解放し、たゞ黙つて夏の夜の醸《かも》す濃厚で爽《さわや》かで多少|腕白《わんぱく》なところもある雰囲気に浸《ひた》つてゐた。蛙《かえる》が低く鳴いて、月は息を吐きか
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