や狸《たぬき》が棲《す》み、この池の排《は》け口へは渋谷川から水鶏《くいな》が上つた程だつた。
牧瀬はまるで他人ごとのやうに歳子にさういふ話をした。歳子は一体この青年が夜な夜な断片的に語る自分の経歴やら、生活やらがまるで他人ごとのやうに淡々と話されるだけ、却《かえ》つて印象が明確なのに気付いて不思議に思つてゐた。
牧瀬の断片的の話を綜合《そうごう》してみるとかうであつた。彼は建築史の研究を近代からだん/\原始へ遡《さかのぼ》つて行つた。建築を通して見た古い昔の民族の素朴な魂と単純な感情に、極めて雄渾《ゆうこん》で溌溂《はつらつ》とした生命が溢《あふ》れてゐるのに、彼は精神を虜《とりこ》にされてしまつた。しかし、歳子の観察によると、彼は趣味の高さから来る近代文化に対する自虐的な反抗と、複雑濃厚なあらゆるものに飽き果てゝ素朴なものゝ愛に引き返した一種洗練された健気《けなげ》にも寂しい個性が感じられた。いはゞ世紀末的な敗頽《はいたい》の底を潜つて、何か清新なものを掴《つか》まうと漁《あさ》つてゐる、老《おい》と若さと矛盾《むじゅん》してゐる人間に見えた。彼はまだ、その目的の精神的なものは掴まないにしろ、肉体の健康と情操の高さだけは感じられた。これは彼から取り除《の》けやうにも取り除けられない彼の二次的性格になつてゐた。
どういふわけか、今夜の彼からは淡々とした話振りの底に熱い情熱が間歇《かんけつ》的に迸《ほとばし》つて、動揺し勝ちの歳子をしば/\動揺さした。そして彼は頻《しき》りに恋愛の話をしたがつた。昔語りでも嘘でもロマンスの性質を帯びれば、それがすべて現実に思へるやうな水色の月が冴《さ》えた真夜中になりかけてゐた。彼は恋愛を愛するが、しかし情熱の表現の仕方については、かういふ風変りなことを云つた。
「――肉体も精神も感覚を通して溶け合つて、死のやうな強い力で恍惚《こうこつ》の三昧《さんまい》に牽《ひ》き入れられるあの生物の習性に従ふ性の祭壇に上つて、まる/\情慾の犠牲になることも悪くはありませんが――しかし、ちよつと気を外《そ》らしてみるときに、なんだか醜い努力のやうな気がします。しかも刹那《せつな》に人間の魂の無限性を消散してしまつて、生の余韻を失《な》くしてしまつたやうな惜しい気持ちがしますね。
僕はそれよりも健康で精力に弾《は》ち切れさうな肉体を二つ野の上に並べて、枝の鳥のやうに口笛を吹きかはすだけで、充分愛の世界に安住出来るほど徹底して理解し合つた男性と女性とでありたく思ふのです。」
微風が草の露《つゆ》を払ふ。気流の循環する加減か遠い百合《ゆり》の畑からの匂ひに混つて、燻臭いにほひがする。歳子が気にすると、それは近所の町の湯屋が夜陰《やいん》に乗じて煙突の掃除をしてゐるのだと牧瀬はいつた。その埃《ほこり》の加減か、または夜気で冷えた加減か池の面には薄く銀灰色の靄《もや》が立て籠《こ》めて来て、この濃淡の渦巻は眺める人に幻を突きつけて、記憶に潜在するあらゆる情緒を語れ/\と誘ふやうに見える。牧瀬はしばらくたゆたつてゐたが、靄の幻を見詰めながらたうとう語つた。
「むかしの牧神と仙女はそんな無駄なあがきを彼等の間柄の仲では一切しませんでした。彼等は愛があるうちは愛の完全透徹した力を信じてゐた。二人は子供のやうに遊び狂ひながら絶対に心は恋愛に充《みた》されてゐた。随分性質の悪い悪戯《いたずら》をし合つて怒つたり、苛《いじ》めたりし合つても、愛の揺ぎを感じなかつた。星の摂理を信じ、互ひの性質の自然を尊敬し合つてゐるものには、疑ひだの不平といふものを挟む必要がなかつた。さういふものを挟む必要が来た時は、もうその星の司《つかさど》る運命は終つたので、彼等は次の星の運命の支配の下に引取られてゐるのだつた。そこでまた彼等は彼等の生命を一ぱいに張り切つた次の生活が始められる。
僅《わず》か七八夜の僅かな話のうちに僕は判りました。あなたは愛だの好意だのに対して素直で無条件に受容れられさうな理想家風の女性らしいですね。僕の直観に従へば、あなたは僕の考へてゐる恋愛論に共鳴が出来る方らしいですね。
この夏の七八夜あなたとここで話したメモリーは僕の一生のうちの最も好いメモリーになりさうです。こんなこと云つて失礼だつたら許して下さい。あなたは静間君と結婚なさつても僕はあなたの特異性を貰《もら》つたやうな気がします」
「私の特異性つてものがございませうか。」
「あなたの特異性を強調していふなら、あなたは純潔な処女のまゝ受胎せよといつたら、その気になる方らしいですかな……はははは……。」
「…………。」
突然牧瀬はつか/\立つて行つて、今までの話題に関《かかわら》せぬやうな、またその続きのやうにも、池の渚《なぎさ》に祈る人のやうに跪《ひざ
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