)「おまえには言っても判るまいがそれは美しいものに牽《ひ》かれるという心だよ。この心が此の世に魅力を持たせて、捨てようにも捨てさせ切らせないのだよ。わたしのようにとっくに[#「とっくに」に傍点]尼になってもいい未亡人でもさ」
老侍女「あら、奥さま、驚きました。それじゃ、何でございますか、お堅いお堅いとお見上げ申した、あなた様にも、その奥には、そんな浮々したお心がおありなのでございますか」
式部(女郎花を机の先のあか桶に挿し、それから再び机の前に坐って)「何でそんなに驚くの。今の世の中の人はみんな蝶々、さっきの妙な若い男も、お隣の聖も、未亡人のわたしも誰でも色香にひかれる気持ちは一つなのだよ」
老侍女「そう致しますと、わたくしは、これから奥様のお取締りに油断は出来ませんでございますねえ」
式部「ほ、ほ、ほ、ほ、それは大丈夫。わたしのあこがれ[#「あこがれ」に傍点]は皆、この鎧《よろい》を通して矢を射交わすのだからね。(筆と紙を指先でつまんでみせて)滅多に傷は受けないんだよ」
老侍女「つまり、お気持は全部、筆にこめて紙の上だけに射るのだからとおっしゃるのでございますか」
式部「ほ、ほ、ほ、ほ、そこがつまり虫のせい[#「せい」に傍点]だろうか」
老侍女「でも、おかしゅうございますねえ、そんなに此の世の美しさに牽き付けられなさるあなた様が、始終、阿弥陀《あみだ》さまを拝んでいらっしゃいますとは」
式部(合掌して独言のように)「迎えの雲、この世の岸、たゆたう渚《なぎさ》に、あわれにも懐《なつか》しきわたしの浄土があるのだ。人の世の果敢無《はかな》さ、久遠《くおん》の涅槃《ねはん》、その架け橋に、わたしは奇しくも憩《いこ》い度い……さあ、もう何も言わないでね。だいぶ暗くなったから、燈でもつけて、それからお斎《とき》でもお隣の聖におあげなさい」
老侍女「はい」(老侍女は何の事とも判らず阿弥陀仏に一礼し燈台《あかり》を式部の机に備え、それから斎を用意し隣へ持って行く。日はとっぷり暮れ、鉦磬《しょうけい》と虫の声、式部は静かに筆を走らす。)
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]――幕――
底本:「岡本かの子全集2」ちくま文庫、筑摩書房
1994(平成6)年2月24日第1刷発行
底本の親本:「巴里祭」青木書房
1938(昭和13)年11月25日発行
初出:「むらさき」
1935(昭和10)年11月号
入力:門田裕志
校正:オサムラヒロ
2008年10月15日作成
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