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老侍女「ねえ、奥様」
式部「なんです」
老侍女「今朝ほどから随分とお根詰めじゃございませんか。それじゃあんまり、お身体にお毒でございますよ」
式部「これだけは放って置いておくれ、物を書くのは、言って見れば、まあ、わたしの虫のせい[#「せい」に傍点]なのだからね」
老侍女「そうでございますか。何だか知りませんが、わたくしは、こちらへ参りましてから根のいい方をお二人お見受け申しました。一人は隣の庵室の聖《ひじり》さま、一人はうちの奥さま。恐らく世間にこれほど根のいい取組はございますまい。お一人は坐って西の方を睨《にら》みづめ、お一人は筆を握って書きづめ。やっぱり、お隣のも、虫のせい[#「せい」に傍点]でございますか」
式部「ほ、ほ、ほ、お隣のは虫は虫でも、だいぶ、真剣な虫のせい[#「せい」に傍点]のようだね」
老侍女「一たい、お隣の聖さまは、ああ昼も夜も坐ったきり西の方を睨んで何をしていらっしゃるんでしょう」
式部「そりゃ、行をしていらっしゃるのさ」
老侍女「行と申しますと」
式部「極楽へ行くお修行さ」
老侍女「へえ、ああやってると極楽へ行けますのでございますか」
式部「あのお方は行けるとお信じになっているのだよ。極楽は西の方に在るというから、その方へ身も心も向け切りにしていたら、いつか必ず極楽へ行けるとお信じになってるのだよ」
老侍女「本当でございましょうかしら」
式部「本当かも知れないし、本当でないかも知れない」
老侍女「嫌でございますわ、奥さま。それが若し本当でないとしたら、あの聖さまは一生無駄骨じゃございませんか」
式部「無駄骨であるか無いか、それは誰にも判らない」(式部はいつか筆を置いて、屈托気に頬を襟《えり》に埋めている)
老侍女(不勝手ながら胸の中で頻《しき》りに考え廻らしている様子あっての後)「ひょっとしたら骨折り甲斐が無いのかも知れませんでございますよ。何でもあの聖さまは毎日、陽が西の空に廻る時分から譫語《うわごと》を言うのでございます、半病人のようになって、わたくしは気味も悪いし、奥さまのお妨げになってもいけないと思ったので、申上げずにいましたが、頻りに焦慮《あせ》る様子を見ると、どうも覚束《おぼつか》ない様子でございますねえ」
式部「わたしも、薄々は気付いているが、声はよく聞
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