きだ。何処《どこ》といって無駄な線のない顔面の初老に近い眼尻の微《かす》かな皺《しわ》の奥までたっぷり太陽の光を吸っている。風が裾《すそ》をあおって行こうと、自転車が、人が、犬が擦《す》り抜けて通って行こうと、逸作は頓着《とんじゃく》なしにぬけぬけと佇《たちどま》って居る。これを、宇宙を小馬鹿にした形と、かの女は内心で評して居る。
――もう宜《い》いのかい。
逸作の平静な声調《せいちょう》は木の葉のそよぎと同じである。「死の様《よう》に静《しずか》だ」と曾《かつ》て逸作を評したかの女の友人があった。その友人は、かの女を同情するような羨《うらや》むような口調で言った。だが、かの女はそれはまだ逸作に対する表面の批評だと思った。逸作の静寂《せいじゃく》は死魂の静寂ではない。仮《か》りに機械に喩《たと》えると此《こ》の機械は、一個所、非常に精鋭な部分があり、あとは使用を閑却《かんきゃく》されていると言って宜《よ》い。無口で鈍重な逸作が、対社会的な画作に傑出《けっしゅつ》して居るのは、その部分が機敏《きびん》に働く職能《しょくのう》の現れだからである。逸作のこの部分の働きの原動力、それはあるときは画業に対しある時はかの女に対する愛であると云《い》うよりほかない。そしてある時は画業に対しある時はかの女に対してその逸作の非常に精鋭な部分が機敏に働いているのである。かの女も亦《また》それを確実に常に受け取って居《い》るのである。だから、かの女は自分の妄想《もうそう》までが、領土を広く持っている気がするのである。自分の妄想までを傍《そば》で逸作の機敏な部分が、咀嚼《そしゃく》していて呉《く》れる。咀嚼して消化《こな》れたそれは、逸作の心か体か知らないが、兎《と》に角《かく》逸作の閑却された他の部分の空間にまで滲《し》みて行く――つまり逸作が、かの女の自由な領土であるということだ。かの女が、逸作の傍で思い切って何でも言え、何でも妄想|出来《でき》るということが、逸作がかの女の領土である証拠であり、そういう両者の機能的関係が「円満な夫婦愛」などと、世人が言いふらすかの女|等《ら》の本体なのである。だが、かの女は「夫婦愛」などと言われるのは嫌いなのである。夫婦と言う字や発音は、なまなましい性欲の感じだ。「愛」と言うほのぼのとした言葉や字に相応しない、いやらしさをかの女は「夫婦」という字音に感じる。ただ、今はひとのことで或《あ》る時、或る場合|一寸《ちょっと》此《こ》の字が現われて来るのなら彼女は宜いと思う。芝居の仕草《しぐさ》や、浄瑠璃《じょうるり》のリズムに伴《ともな》い、「天下晴れての夫婦」などと若い水々《みずみず》しい男女の恋愛の結末の一場面のくぐり[#「くぐり」に傍点]をつける時に、たった一つ位《くら》い此の言葉を使うのは、世話に砕《くだ》けたなまめかしさを感じて宜いと彼女は思う。だが、もっと地味に、決定的に、質実に、その本質を指定することも出来ない組み合せになって相当、年月を経《へ》た男女――少なくとも取り立てて男女などと感じなくなった自分達だけは、子の前などでは尚更《なおさら》「夫婦」なんてぷんぷんなま[#「なま」に傍点]の性欲の匂《にお》いのする形容詞を着せられるのは恥《はず》かしい。よく年若《としわか》な夫が自分の若い妻を「うちの婆《ばあ》さん」などと呼ぶ、あれも何となく気取って居《い》るように思われるが、でも人の前で、殊《こと》に器量《きりょう》の好《よ》くない夫婦などが「われわれ夫婦」などと言うのを聞くのをかの女は好まない。新聞や雑誌などで、夫婦という字を散見《さんけん》しても、ひとのことどうでも宜《よ》いようなものの、好もしいとはかの女は思わない。
逸作とかの女との散歩の道は進む。
――あたし、あなたに見せるものあるのよ。
――そうかい。
――何だか知ってる?
――知らない。
――あてなさい、な。
――あたらない。
――あれだ。太郎から手紙よ。
――おい、見せなさいよ。
――道のまん中じゃあないの。
――好いからさ。
――墓地へ行って見せる。
かの女は袖《そで》のなかで、がさがさしてる息子の手紙を帯の間へ移す。くどく無い逸作は、或《あ》るものに食欲を出しかけたような唇を、一つ強く引き締めることによって、其《そ》の欲望を制した。かの女のいたずら心が跳ね返って嬉《よろこ》ぶ。
散歩に伴う生理調節作用として斯《こ》んないたずらが、かの女には快適なのだった。
逸作が、他に向《むか》っての欲望の表現はくどく[#「くどく」に傍点]ないのだ。然《しか》し、逸作の心に根を保っている逸作の特種《とくしゅ》の欲望がある。逸作はそれを自分の内心に追求するに倦《う》まない男だ。逸作の特種な欲望とは極々《ごくごく》限られ
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