。また其れと同じ程度にこれを世に出す熱心を持たない。公衆? 公衆とは何? 藝術は公衆相手の仕事であらうか。私はセザンヌがわが描きをはれる畫を家の藪に常に棄てた心事をよく了解する。私にとつて制作はその瞬間出來る限りたのしまれたる生の活動の氣高い一片である。私は此歡ばしい活動のため少年の如く熱心にその制作に沒頭する。それは悲哀の絶頂すらこの活動によつて慰められる。この生の活動より來る自然にして完全なねぎらひ、それは私等藝術に從ふものゝ行ふと共に常に報いらるゝ合理の報償である。私は人氣を願はない。私は生の報いは常に受けてゐる。そして私は常に快活である。
もし私が自己の作を世に敢て出すとすれば、それは吾が悲しむごときことに悲しみ、また怒るごときことに怒り、たのしむごときことに樂しみ、悦ぶごときことに悦ぶ私のそれと心情をともにする世の隱れたる未知の兄弟姉妹を思ふからであつて、それ等の人は恐らく私の拙劣なる作の部分をも、その類似する心理からして、巧みに私の訥辯中の眞意を捉へてくれると思はれるからにある。私は隱れたるこの未知の人々が私のこの集を待つてくれる心地がする。運命の逆と私自身の不熱心よりして廣く世に出すに到らなかつた私の作を、今その最初の作より集めて便宜上三段に分ち、讀者に供へる原因は、この人々ありといふ微笑すべき理由に出づる。私は藝術の價値如何は思はない。それは思ふともその險惡にして惡騷がしい時代には耳に入らないだらうし、また吾が作にもそれだけの價値あるものが幾らあるか疑問である。藝術制作は人たる生活に與へられたる内最も微妙な活動の一つであつて、その間から生れた作は生の完全な具現物である。吾々は今完全を悦ぶ時代に遭遇してない。その隱れたる心情の世界を思ふべきの時である。
 大正八年、吾が心情を注いで生きたる年の一つ、
   そのクリスマスの夜に
[#地から6字上げ]東京田端
[#地から2字上げ]福士幸次郎

 序詩

  展望

ああ吾が幾山坂の行路を踏み越えて、
今黒白の霰の岩地輝く斷層《きりぎし》の上、
このわが峠路《たうげぢ》より俯瞰すれば、
山河幾十里の展望、緑の平野白く眞下にひろがり、
微かに眼《まなこ》開く蛇のごとき銀色の河、
彼方灰色の靄につつまれたる大都會の帶見える方《かた》に、
地の果てに、
底びかりして地の圓い起伏、點在する森、群落する小都會の彩色圖
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