ああ、夢ならばさめておくれ
ぽかんさん
此の世の中に多いものは
祕藏息子のやもめ暮らし
時計の針の尖《さき》のやうに
氣の狂《ふ》れやすい生娘《きむすめ》暮らし
この年月の寒暑《あつささむさ》の往來に
私の胸は凋《しぼ》んだ花の皺《しわ》ばかり
私の胸はとりとまりない時候はづれな食氣《くひけ》ばかり

  扇を持つみなしごの娘 ――七月

扇の中にみなしごは
白い虚《うつろ》な眼を閉ぢる
病氣上りの氣のやみに
まぶしく照らす赤い夕日
風にふらふらうごく雛罌粟《ひなげし》
心覺《こころおぼ》えの兩親《ふたおや》が心の何處かにあるやうに
所々《しよしよ》にきらきらと清水《しみづ》が涌く

ああパウルのやうに嚴《いかつ》くて、ペテロのやうにやさしい院長さん
私が此方《こちら》へ初めて來た日には
あのお天日樣《てんとさま》目掛けて飛んでゆく鳥みたいでした
そのくせ夜《よる》になると魘《うなさ》れたり
泣き出したり
知らぬ他國の夢を見て
暗い廊下におびえて居たり……

  すべての友達に送る手紙 ――十一月

覺醒《かくせい》はそれ自身でひとつの誕生だ
ひとつの新しい靈魂の生活だ
私は餘り多くない、併し親みのとりどりに深かつた友達にかう言ひたい
私は今あなた方や、また君達のことを思ふと限りなく深い負債《ふさい》の沼にはまつて行くばかりだ
そして今頃それを言ひ出す程
私のした事はあらゆる冒涜《ばうとく》である
人の心の冒涜である
ああ私はあらゆる淨い氣高《けだか》い土地をかうして今までむだに涜《けが》して來た

今こそ自分自身の魂《たましひ》からもの言はう
私は一時乞食であつた
瞞《かた》りであつた
泥棒であつた
そして苦しく蒼ざめて氣むつかしい
つむじまがりの幽靈であつた
それに欺《だま》されたのが口惜《くや》しかつたら
皆《みんな》で手いつぱいに憎んでくれ給へ
私は人を欺した覺えはないが
自分が未だ生れないのを
生れたと思つた罪がある
そこで冒涜した
人の心を冒涜した

私はこの負債をいつ拂へよう
人に犯したこの罪は
一生ぬぐへまい
私には悲痛な深刻な魂が
今日を覺してゐる
よりどころのない、併し確な一歩が踏みだしてある
今までの死殼《しにがら》を蹴飛ばして
心から出る産聲《うぶごゑ》をあげる處だ
つむじまがりの幽靈は面變《おもがは》りして
あかく灼熱した眼を燃しながら
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