だか、知れません。一つ外の例を引いて申しましょう。あのバアナアド・ショオの脚本にゼ・デヴィルス・ヂッシプルというのがあります。主人公ヂックが牧師の内に往《い》って、牧師夫婦と話をしているうちに、牧師が余所《よそ》へ出てしまう。そこへ敵兵が来て牧師を縛ろうとする。縛られて行けば、見せしめに磔《はりつけ》か何かにせられてしまうのです。敵兵はヂックを牧師だと思って縛りに掛かる。ヂックは牧師の積《つもり》で、平気で縛られて行《ゆ》きます。牧師がヂックのために恩義でもある人ですか。決してそうではないのです。実は悠々たる行路の人なのです。しかしヂックは「己《おれ》は牧師ではない」というのが嫌《いや》なのです。ヂックは非常な仁人とか義士とかに見えるでしょう。しかしヂックの思想はわれわれの教えられている仁だの義だのというものとは丸で違っているのです。これはわれわれの目に珍らしいばかりではありません。倫敦《ロンドン》で始て興行せられた時、英人にも丸で分からなかったのです。それだからヂックを勤めたカアソンという役者が、批評家に智恵《ちえ》を附けられて、ジックは牧師の妻《さい》を愛しているので、それで牧師の
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