《のぼ》つて來て何だか身内に元氣が目覺めて來たのだつた。………
 實際あんな單純な冷覺や觸覺や嗅覺や視覺が、ずつと昔からこればかり探してゐたのだと云ひ度くなつたほど私にしつくりしたなんて私は不思議に思へる――それがあの頃のことなんだから。
 私はもう往來を輕《かろ》やかな昂奮に彈《はず》んで、一種|誇《ほこ》りかな氣持さへ感じながら、美的裝束をして街を濶歩した詩人のことなど思ひ浮べては歩いてゐた。汚れた手拭の上へ載せて見たりマントの上へあてがつて見たりして色の反映を量《はか》つたり、またこんなことを思つたり、
 ――つまりは此の重さなんだな。――
 その重さこそ常々私が尋《たづ》ねあぐんでゐたもので、疑ひもなくこの重さは總《すべ》ての善いもの總ての美しいものを重量に換算して來た重さであるとか、思ひあがつた諧謔心からそんな馬鹿げたことを考えて見たり――何がさて私は幸福だつたのだ。
 何處をどう歩いたのだらう、私が最後に立つたのは丸善《まるぜん》の前だつた。平常あんなに避けてゐた丸善が其の時の私には易《やす》々と入れるやうに思へた。
「今日は一つ入《はい》つて見てやらう」そして私はづかづか入《はい》つて行つた。
 然しどうしたことだらう、私の心を充してゐた幸福な感情は段々逃げて行つた。香水の壜にも煙管にも私の心はのしかかつてはゆかなかつた。憂鬱が立て罩《こ》めて來る、私は歩き廻つた疲勞が出て來たのだと思つた。私は畫本《ゑほん》の棚《たな》の前へ行つて見た。畫集《ぐわしふ》の重たいのを取り出すのさへ常に増して力が要《い》るな! と思つた。然し私は一册づつ拔《ぬ》き出しては見る、そして開《あ》けては見るのだが、克明にはぐつてゆく氣持は更に湧《わ》いて來ない。然も呪はれたことにはまた次の一册を引き出して來る。それも同じことだ。それでゐて一度バラバラとやつて見なくては氣が濟《す》まないのだ。それ以上は堪らなくなつて其處へ置いてしまふ。以前の位置へ戻《もど》すことさへ出來ない。私は幾度もそれを繰返《くりかへ》した。たうとうおしまひには日頃《ひごろ》から大好きだつたアングルの橙色の重い本まで尚一層の堪《た》え難《がた》さのために置いてしまつた。――何といふ呪はれたことだ。手の筋肉に疲勞が殘つてゐる。私は憂鬱になつてしまつて、自分が拔いたまま積《つ》み重《かさ》ねた本の群《ぐん》を眺《なが》めてゐた。
 以前にはあんなに私をひきつけた畫本《ゑほん》がどうしたことだらう。一枚一枚に眼を晒《さら》し終つて後《のち》、さてあまりに尋常な周圍を見廻すときのあの變《へん》にそぐはない氣持を、私は以前には好んで味つてゐたものであつた。………
「あ、さうださうだ」その時私は袂の中の檸檬を憶ひ出した。本の色彩をゴチヤゴチヤに積みあげて、一度この檸檬で試《ため》して見たら。「さうだ」
 私にまた先程の輕《かろ》やかな昂奮が歸つて來た。私は手當り次第に積みあげ、また慌しく潰《くづ》し、また慌しく築きあげた。新《あたら》しく引き拔いてつけ加《くは》へたり、取り去つたりした。奇怪《きくわい》な幻想的《げんさうてき》な城が、その度《たび》に赤くなつたり青くなつたりした。
 やつとそれは出來上つた。そして輕《かる》く跳《おど》りあがる心を制《せい》しながら、その城壁の頂きに恐《おそ》る恐る檸檬を据ゑつけた。そしてそれは上出來だつた。
 見わたすと、その檸檬の色彩《しきさい》はガチヤガチヤした色の階調をひつそりと紡錘形の身體の中へ吸收してしまつて、カーンと冴《さ》えかへつてゐた。私には埃《ほこり》つぽい丸善の中の空氣が、その檸檬の周圍だけ變に緊張してゐるやうな氣がした。私はしばらくそれを眺めてゐた。
 不意に第二のアイデイアが起つた。その奇妙なたくらみは寧ろ私をぎよつとさせた。
 ――それをそのままにしておいて私は、何喰はぬ顏をして外《そと》へ出る。――
 私は變にくすぐつたい氣持がした。「出て行かうかなあ。さうだ出て行かう」そして私はすたすた出て行つた。
 變にくすぐつたい氣持が街の上の私を微笑《ほほえ》ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆彈を仕掛《しかけ》て來た奇怪な惡漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆發をするのだつたらどんなに面白いだらう。
 私はこの想像を熱心に追求した。「さうしたらあの氣詰《きづま》りな丸善も粉葉《こつぱ》みじんだらう」
 そして私は活動寫眞の看板畫《かんばんゑ》が奇體な趣きで街を彩《いろど》つてゐる京極《きようごく》を下《さが》つて行つた。
[#地から1字上げ](大正十四年一月)



底本:「檸檬」十字屋書店
   1933(昭和8)年12月1日発行
   1940(昭和15)年12月20日第2刷発行
初出:「青空」
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