に浴せかける絢爛《けんらん》は、周圍の何者にも奪はれることなく、肆《ほしいまま》にも美しい眺めが照し出されてゐるのだ。裸の電燈が細長い螺旋棒《らせんぼう》をきりきり眼の中へ刺し込んで來る往來に立つてまた近所にある鎰屋《かぎや》の二階の硝子窓をすかして眺めた此の果物店《くだものみせ》の眺めほど、その時どきの私を興がらせたものは寺町の中でも稀だつた。
その日私は何時になくその店で買物をした。といふのはその店には珍らしい檸檬《れもん》が出てゐたのだ。檸檬など極くありふれてゐる。が其の店《みせ》といふのも見すぼらしくはないまでもただあたりまへの八百屋に過ぎなかつたので、それまであまり見かけたことはなかつた。一|體《たい》私はあの檸檬が好きだ。レモンヱロウの繪具をチユーブから搾《しぼ》り出して固めたやうなあの單純な色も、それからあの丈《たけ》の詰つた紡錘形の恰好も。――結局私はそれを一つだけ買ふことにした。それからの私は何處《どこ》へどう歩いたのだらう。私は長い間《あひだ》街を歩いてゐた。始終私の心を壓《おさ》へつけてゐた不吉な塊がそれを握つた瞬間からいくらか弛《ゆる》んで來たと見えて、私は街の上で非常に幸福であつた。あんなに執拗《しつこ》かつた憂鬱が、そんなものの一顆で紛らされる――或ひは不審《ふしん》なことが、逆説的《ぎやくせつてき》な本當であつた。それにしても心といふ奴は何といふ不可思議な奴だらう。
その檸檬の冷《つめ》たさはたとへやうもなくよかつた。その頃私は肺尖を惡くしてゐていつも身體《からだ》に熱が出た。事實友達の誰彼に私の熱を見せびらかす爲に手の握り合ひなどをして見るのだが私の掌《てのひら》が誰れのよりも熱《あつ》かつた。その熱《あつ》い故《せゐ》だつたのだらう、握《にぎ》つてゐる掌《てのひら》から身内《みうち》に浸み透つてゆくやうなその冷《つめ》たさは快《こころよ》いものだつた。
私は何度も何度もその果實を鼻に持つて行つては嗅《か》いで見た。それの産地だといふカリフオルニヤが想像に上《のぼ》つて來る。漢文で習つた「賣柑者之言」の中に書いてあつた「鼻を撲《う》つ」といふ言葉が斷《き》れぎれに浮んで來る。そしてふかぶかと胸一杯《むねいつぱい》に匂やかな空氣を吸込《すひこ》めば、ついぞ胸一杯に呼吸したことのなかつた私の身體《からだ》や顏には温い血のほとぼりが昇
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