なつてゐるのだつたら。――錯覺がやうやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の繪具《ゑのぐ》を塗りつけてゆく。何のことはない、私の錯覺と壞《くづ》れかかつた街との二重寫しである。そして私はその中に現實の私自身を見失ふのを樂しんだ。
私はまたあの花火《はなび》といふ奴が好きになつた。花火そのものは第二段として、あの安つぽい繪具で赤や紫や黄や青や、樣ざまの縞模樣《しまもやう》を持つた花火の束、中山寺の星下《ほしくだ》り、花合戰《はながつせん》、枯れすすき。それから鼠花火《ねづみはなび》といふのは一つづつ輪になつてゐて箱に詰めてある。そんなものが變に私の心を唆つた。
それからまた、びいどろ[#「びいどろ」に傍点]といふ色硝子で鯛や花を打出《うちだ》してあるおはじきが好きになつたし、南京玉《なんきんだま》が好きになつた。またそれを嘗《な》めて見るのが私にとつて何ともいへない享樂《きようらく》だつたのだ。あのびいどろ[#「びいどろ」に傍点]の味ほど幽《かす》かな凉しい味があるものか。私は幼い時よくそれを口に入れては父母に叱られたものだが、その幼時のあまい記憶が大きくなつて落魄《おちぶ》れた私に蘇《よみがへ》つて來る故《せゐ》だらうか、全くあの味には幽かな爽《さはや》かな何となく詩美と云つたやうな味覺が漂つてゐる。
察しはつくだらうが私にはまるで金がなかつた。とは云へそんなものを見て少しでも心の動きかけた時の私自身を慰める爲には贅澤といふことが必要であつた。二錢や三錢のもの――と云つて贅澤なもの。美しいもの――と云つて無氣力な私の觸角《しよくかく》に寧ろ媚びて來るもの。――さう云つたものが自然《しぜん》私を慰めるのだ。
生活がまだ蝕まれてゐなかつた以前私の好きであつた所は、例へば丸善《まるぜん》であつた。赤や黄のオードコロンやオードキニン。洒落《しやれ》た切子細工《きりこざいく》や典雅《てんが》なロココ趣味の浮模樣《うきもやう》を持つた琥珀色やひすい色の香水壜。煙管、小刀、石鹸、煙草。私はそんなものを見るのに小一時間も費すことがあつた。そして結局一等いい鉛筆を一本買ふ位の贅澤をするのだつた。然し此處ももう其頃の私にとつては重くるしい場所に過ぎなかつた。書籍、學生、勘定臺、これらはみな借金取の亡靈のやうに私には見えるのだつた。
ある朝――其頃私は甲の友達から乙の友達へ
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