知つてゐた。そして奎吉は苦しんだ。然し此の際奎吉は手段などはどうでもいゝ程金が欲しかつた。その欲望はますます巨大に膨れ上つて、奎吉の良心を窒息させてしまひそ[#「そ」に「(ママ)」の注記]うになつた。彼は非常に氣を重くさせてしまつた。何だか譯のわからないものゝ中にゐる樣な氣がした。が、と[#「と」に「(ママ)」の注記]うとうその欲望が勝を占めた。その瞬間奎吉は第二の奎吉といふ樣なものがその醜い行爲をするのを傍觀する樣な、そして自分の聲をさへ一方から傍聽する樣な空想を起しながら、莊之助に呼びかけてしまつた。
「おい、莊之助、ちよつと。」
 そ[#「そ」に「(ママ)」の注記]う云つてしまつた時、彼はその聲が非常に不機嫌に重々しく響いたと思つた。
 雜誌に讀み耽つてゐた莊之助は、兄の視線の下で、身體を起しながらも、その頁から眼をはなさず、それでも兄のいらいらしてゐる視線にゆきあたつた時、機嫌をとる樣な作り笑ひをして近づいて來た。
 それが何か用事を云ひつける樣な時だと、そんな笑顏などは恥ぢて消えてしまふ程、ますます不機嫌な顏をして、ぶつきら棒に「新聞とつといで」とでも云ふのであるが、奎吉は莊之助の視線に會ふと危く目をそらそ[#「そ」に「(ママ)」の注記]うとした。奎吉は何だかもやもやしてゐるものゝ中に閉ぢ込められてゐる樣に思つた。然し努めて顏を無表情に裝ひながら、彼の弱味を見られまいとした。
「お前の貯金から少し金を出して來て呉れ。急に入用が出來たんだが、お母さんが今使ひに行つてゐないから。」
 彼がやつとそれを云ひ終へた時には、さき程の變に歪められた(この樣な事件が今起つてゐるのだな。)といふ想像の氣持が丸切り影を消してゐた。
 莊之助は舞臺の上の人物が傍白を云ふ時の樣に一度目を横へそらせて「あゝ」と云つてうなづいた。奎吉は不幸にもその時の莊之助の顏に浮んだ微笑の影に、奎吉をなぐさめる樣な柔しい感情の表れがあつたのを見逃せなかつた。
 その人間にその申し出が拒絶される時の氣不味さを氣遣ひながら、恐る恐る金を貸して呉れと他人に云ふ時に奎吉がいつも顏面に感じたあの堪らなく嫌な顏附きが、奎吉の努力を裏切つて、ここへも出たのではあるまいか、そして莊之助は俺のその顏から、俺の苦痛をヒユーメインにも知つて、あんなに柔しい顏附きをしたのではあるまいかと彼は疑つた。然も彼は莊之助のその顏を生意氣に思ひ、いまいましく感じた。
「お前通帳と認印は自分で藏つてるんだね。ぢや直ぐ行つて五圓出しておいで、そしてこんなこと知れると少し都合が惡いから、俺が返すまで誰にも云ふんぢやないよ。いゝかい。その代り返す時には六圓にして返してやるからな。」 
 奎吉は最後の醜さを出してしまつた。然し彼はどうしても口止めをせずにはゐられなかつたのだつた。
 莊之助はそれを頷きながらきいてゐたが、おしまひに云ひ難くさを切り拔ける樣にしてこ[#「こ」に「(ママ)」の注記]う云つた。
「何も餘計にして返して貰はうとは思はないけど、確かに返してくれるのだつたら……。」
 奎吉は本當過ぎる程本當なそんな弟の言葉には全く參らされた。思ひがけなくも卑しい利息のことなどを云つたのを、堪らなく恥かしく思つた。金を返すにしても父が呉れる樣にならなければどうせ返せないのだし、金が手に入つても右左にそれを返すにはどうしても目をつぶつて自分を麻痺させなければ、惜しくて堪らなくなる自分の性質を省ても、莊之助の言葉は本當過ぎる位本當であつたので。

 莊之助が出て行つてから彼は堪らない場面をと[#「と」に「(ママ)」の注記]うとうやり過したといふ氣がしたが、次々に盛り上つて來る嫌惡の感じにゐたたまらなくなつた。そして變なことに、彼は舌をべろ[#「べろ」に傍点]と出して見た。そして次には「やつた、やつた」と小聲で云ひながら踊る樣な眞似をした。彼はそれでもあきたらなかつた。最後に奎吉は「うー」と云ひながら顏を思ひ切つてしかめた。なほもなほもひどく。なにかその顏面筋肉の收縮の感覺に快感があるかの樣に。



底本:「梶井基次郎全集 第一巻」筑摩書房
   1999(平成11)年11月10日初版第1刷発行
入力:高柳典子
校正:小林繁雄
2002年11月10日作成
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