。高い椎の樹へ隠れるのである。直射光線が気疎《けうと》い回折光線にうつろいはじめる。彼らの影も私の脛の影も不思議な鮮やかさを帯びて来る。そして私は褞袍《どてら》をまとって硝子《ガラス》窓を閉《とざ》しかかるのであった。
 午後になると私は読書をすることにしていた。彼らはまたそこへやって来た。彼らは私の読んでいる本へ纒《まつ》わりついて、私のはぐる頁のためにいつも身体を挾み込まれた。それほど彼らは逃げ足が遅い。逃げ足が遅いだけならまだしも、わずかな紙の重みの下で、あたかも梁《はり》に押えられたように、仰向《あおむ》けになったりして藻掻《もが》かなければならないのだった。私には彼らを殺す意志がなかった。それでそんなとき――ことに食事のときなどは、彼らの足弱がかえって迷惑になった。食膳のものへとまりに来るときは追う箸をことさら緩《ゆ》っくり動かさなくてはならない。さもないと箸の先で汚ならしくも潰《つぶ》れてしまわないとも限らないのである。しかしそれでもまだそれに弾ねられて汁のなかへ落ち込んだりするのがいた。
 最後に彼らを見るのは夜、私が寝床へはいるときであった。彼らはみな天井に貼りついていた。凝《じ》っと、死んだように貼りついていた。――いったい脾弱《ひよわ》な彼らは日光のなかで戯れているときでさえ、死んだ蠅が生き返って来て遊んでいるような感じがあった。死んでから幾日も経ち、内臓なども乾きついてしまった蠅がよく埃《ほこり》にまみれて転がっていることがあるが、そんなやつがまたのこのこ[#「のこのこ」に傍点]と生き返って来て遊んでいる。いや、事実そんなことがあるのではなかろうか、と言った想像も彼らのみてくれ[#「みてくれ」に傍点]からは充分に許すことができるほどであった。そんな彼らが今や凝《じ》っと天井にとまっている。それはほんとうに死んだよう[#「死んだよう」に傍点]である。
 そうした、錯覚に似た彼らを眠るまえ枕の上から眺めていると、私の胸へはいつも廓寥《かくりょう》とした深夜の気配が沁《し》みて来た。冬ざれた溪間の旅館は私のほかに宿泊人のない夜がある。そんな部屋はみな電燈が消されている。そして夜が更けるにしたがってなんとなく廃墟に宿っているような心持を誘うのである。私の眼はその荒れ寂びた空想のなかに、恐ろしいまでに鮮やかな一つの場面を思い浮かべる。それは夜深く海の香をたてながら、澄み透った湯を溢れさせている溪傍の浴槽である。そしてその情景はますます私に廃墟の気持を募らせてゆく。――天井の彼らを眺めていると私の心はそうした深夜を感じる。深夜のなかへ心が拡がってゆく。そしてそのなかのただ一つの起きている部屋である私の部屋。――天井に彼らのとまっている、死んだように凝《じ》っととまっている私の部屋が、孤独な感情とともに私に帰って来る。
 火鉢の火は衰えはじめて、硝子《ガラス》窓を潤《うる》おしていた湯気はだんだん上から消えて来る。私はそのなかから魚のはららごに似た憂鬱な紋々があらわれて来るのを見る。それは最初の冬、やはりこうして消えていった水蒸気がいつの間にかそんな紋々を作ってしまったのである。床の間の隅《すみ》には薄うく埃をかむった薬壜が何本も空《から》になっている。なんという倦怠、なんという因循だろう。私の病鬱は、おそらく他所の部屋には棲《す》んでいない冬の蠅をさえ棲《す》ませているではないか。いつになったらいったいこうしたことに鳧《けり》がつくのか。
 心がそんなことにひっかかると私はいつも不眠を殃《わざわ》いされた。眠れなくなると私は軍艦の進水式を想い浮かべる。その次には小倉百人一首を一首宛思い出してはそれの意味を考える。そして最後には考え得られる限りの残虐な自殺の方法を空想し、その積み重ねによって眠りを誘おうとする。がらんとした溪間の旅館の一室で。天井に彼らの貼りついている、死んだように凝《じ》っと貼りついている一室で。――

     2

 その日はよく晴れた温かい日であった。午後私は村の郵便局へ手紙を出しに行った。私は疲れていた。それから溪《たに》へ下りてまだ三四丁も歩かなければならない私の宿へ帰るのがいかにも億劫《おっくう》であった。そこへ一台の乗合自動車が通りかかった。それを見ると私は不意に手を挙げた。そしてそれに乗り込んでしまったのである。
 その自動車は村の街道を通る同族のなかでも一種目だった特徴で自分を語っていた。暗い幌《ほろ》のなかの乗客の眼がみな一様に前方を見詰めている事や、泥除け、それからステップの上へまで溢れた荷物を麻繩が車体へ縛りつけている恰好や――そんな一種の物ものしい特徴で、彼らが今から上り三里下り三里の峠を踰《こ》えて半島の南端の港へ十一里の道をゆく自動車であることが一目で知れるのであった。私
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