さんはいないかよう!」
静かな空気を破って媚《なま》めいた女の声が先ほどから岸で呼んでいた。ぼんやりした燈《あか》りを睡《ね》むそうに提げている百|噸《トン》あまりの汽船のとも[#「とも」に傍点]の方から、見えない声が不明瞭になにか答えている。それは重々しいバスである。
「いないのかよう。××さんは」
それはこの港に船の男を相手に媚《こび》を売っている女らしく思える。私はその返事のバスに人ごとながら聴耳をたてたが、相不変《あいかわらず》曖昧《あいまい》な言葉が同じように鈍い調子で響くばかりで、やがて女はあきらめたようすでいなくなってしまった。
私は静かな眠った港を前にしながら転変に富んだその夜を回想していた。三里はとっくに歩いたと思っているのにいくらしてもおしまいにならなかった山道や、谿《たに》のなかに発電所が見えはじめ、しばらくすると谿の底を提灯《ちょうちん》が二つ三つ閑かな夜の挨拶を交しながらもつれて行くのが見え、私はそれがおおかた村の人が温泉へはいりにゆく灯で、温泉はもう真近にちがいないと思い込み、元気を出したのにみごと当てがはずれたことや、やっと温泉に着いて凍え疲れた四肢を村人の混み合っている共同湯で温めたときの異様な安堵《あんど》の感情や、――ほんとうにそれらは回想という言葉にふさわしいくらい一晩の経験としては豊富すぎる内容であった。しかもそれでおしまいというのではなかった。私がやっと腹を膨《ふく》らして人心つくかつかぬに、私の充たされない残酷な欲望はもう一度私に夜の道へ出ることを命令したのであった。私は不安な当てで名前も初耳な次の二里ばかりも離れた温泉へ歩かなければならなかった。その道でとうとう私は迷ってしまい、途方に暮れて暗《やみ》のなかへ蹲《うずく》まっていたとき、晩《おそ》い自動車が通りかかり、やっとのことでそれを呼びとめて、予定を変えてこの港の町へ来てしまったのであった。それから私はどこへ行ったか。私はそんなところには一種の嗅覚でも持っているかのように、堀割に沿った娼家の家並みのなかへ出てしまった。藻草を纒ったような船夫達が何人も群れて、白く化粧した女を調戯《からか》いながら、よろよろと歩いていた。私は二度ほど同じ道を廻り、そして最後に一軒の家へ這入《はい》った。私は疲れた身体に熱い酒をそそぎ入れた。しかし私は酔わなかった。酌に来た女は秋刀
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