たてながら、澄み透った湯を溢れさせている溪傍の浴槽である。そしてその情景はますます私に廃墟の気持を募らせてゆく。――天井の彼らを眺めていると私の心はそうした深夜を感じる。深夜のなかへ心が拡がってゆく。そしてそのなかのただ一つの起きている部屋である私の部屋。――天井に彼らのとまっている、死んだように凝《じ》っととまっている私の部屋が、孤独な感情とともに私に帰って来る。
火鉢の火は衰えはじめて、硝子《ガラス》窓を潤《うる》おしていた湯気はだんだん上から消えて来る。私はそのなかから魚のはららごに似た憂鬱な紋々があらわれて来るのを見る。それは最初の冬、やはりこうして消えていった水蒸気がいつの間にかそんな紋々を作ってしまったのである。床の間の隅《すみ》には薄うく埃をかむった薬壜が何本も空《から》になっている。なんという倦怠、なんという因循だろう。私の病鬱は、おそらく他所の部屋には棲《す》んでいない冬の蠅をさえ棲《す》ませているではないか。いつになったらいったいこうしたことに鳧《けり》がつくのか。
心がそんなことにひっかかると私はいつも不眠を殃《わざわ》いされた。眠れなくなると私は軍艦の進水式を想い浮かべる。その次には小倉百人一首を一首宛思い出してはそれの意味を考える。そして最後には考え得られる限りの残虐な自殺の方法を空想し、その積み重ねによって眠りを誘おうとする。がらんとした溪間の旅館の一室で。天井に彼らの貼りついている、死んだように凝《じ》っと貼りついている一室で。――
2
その日はよく晴れた温かい日であった。午後私は村の郵便局へ手紙を出しに行った。私は疲れていた。それから溪《たに》へ下りてまだ三四丁も歩かなければならない私の宿へ帰るのがいかにも億劫《おっくう》であった。そこへ一台の乗合自動車が通りかかった。それを見ると私は不意に手を挙げた。そしてそれに乗り込んでしまったのである。
その自動車は村の街道を通る同族のなかでも一種目だった特徴で自分を語っていた。暗い幌《ほろ》のなかの乗客の眼がみな一様に前方を見詰めている事や、泥除け、それからステップの上へまで溢れた荷物を麻繩が車体へ縛りつけている恰好や――そんな一種の物ものしい特徴で、彼らが今から上り三里下り三里の峠を踰《こ》えて半島の南端の港へ十一里の道をゆく自動車であることが一目で知れるのであった。私
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