かなかった。が、友達の噂学校の話、久濶《きゅうかつ》の話は次第に出て来た。
「この頃学校じゃあ講堂の焼跡を毀《こわ》してるんだ。それがね、労働者が鶴嘴《つるはし》を持って焼跡の煉瓦壁へ登って……」
その現に自分の乗っている煉瓦壁へ鶴嘴を揮《ふる》っている労働者の姿を、折田は身振りをまぜて描き出した。
「あと一と衝《つ》きというところまでは、その上にいて鶴嘴《つるはし》をあてている。それから安全なところへ移って一つぐわんとやるんだ。すると大きい奴《やつ》がどどーんと落ちて来る」
「ふーん。なかなかおもしろい」
「おもしろいよ。それで大変な人気だ」
堯《たかし》らは話をしているといくらでも茶を飲んだ。が、へいぜい自分の使っている茶碗《ちゃわん》でしきりに茶を飲む折田を見ると、そのたび彼は心が話からそれる。その拘泥がだんだん重く堯にのしかかって来た。
「君は肺病の茶碗を使うのが平気なのかい。咳をするたびにバイキンはたくさん飛んでいるし。――平気なんだったら衛生の観念が乏しいんだし、友達|甲斐《がい》にこらえているんだったら子供みたいな感傷主義に過ぎないと思うな――僕はそう思う」
言ってしまって堯は、なぜこんないやなことを言ったのかと思った。折田は目を一度ぎろとさせたまま黙っていた。
「しばらく誰も来なかったかい」
「しばらく誰も来なかった」
「来ないとひがむかい」
こんどは堯が黙った。が、そんな言葉で話し合うのが堯にはなぜか快かった。
「ひがみはしない。しかし俺もこの頃は考え方が少しちがって来た」
「そうか」
堯《たかし》はその日の出来事を折田に話した。
「俺はそんなときどうしても冷静になれない。冷静というものは無感動じゃなくて、俺にとっては感動だ。苦痛だ。しかし俺の生きる道は、その冷静で自分の肉体や自分の生活が滅びてゆくのを見ていることだ」
「…………」
「自分の生活が壊れてしまえばほんとうの冷静は来ると思う。水底の岩に落ちつく木の葉かな。……」
「丈草《じょうそう》だね。……そうか、しばらく来なかったな」
「そんなこと。……しかしこんな考えは孤独にするな」
「俺は君がそのうちに転地でもするような気になるといいと思うな。正月には帰れと言って来ても帰らないつもりか」
「帰らないつもりだ」
珍しく風のない静かな晩だった。そんな夜は火事もなかった。二人が話をしていると、戸外にはときどき小さい呼子のような声のものが鳴いた。
十一時になって折田は帰って行った。帰るきわに彼は紙入のなかから乗車割引券を二枚、
「学校へとりにゆくのも面倒だろうから」と言って堯に渡した。
六
母から手紙が来た。
――おまえにはなにか変わったことがあるにちがいない。それで正月上京なさる津枝さんにおまえを見舞っていただくことにした。そのつもりでいなさい。
帰らないと言うから春着を送りました。今年は胴着を作って入れておいたが、胴着は着物と襦袢《じゅばん》の間に着るものです。じかに着てはいけません。――
津枝というのは母の先生の子息で今は大学を出て医者をしていた。が、かつて堯《たかし》にはその人に兄のような思慕を持っていた時代があった。
堯は近くへ散歩に出ると、近頃はことに母の幻覚に出会った。母だ! と思ってそれが見も知らぬ人の顔であるとき、彼はよく変なことを思った。――すーっと変わったようだった。また母がもう彼の部屋へ来て坐りこんでいる姿が目にちらつき、家へ引き返したりした。が、来たのは手紙だった。そして来るべき人は津枝だった。堯の幻覚はやんだ。
街を歩くと堯は自分が敏感な水準器になってしまったのを感じた。彼はだんだん呼吸が切迫して来る自分に気がつく。そして振り返って見るとその道は彼が知らなかったほどの傾斜をしているのだった。彼は立ち停まると激しく肩で息をした。ある切ない塊が胸を下ってゆくまでには、必ずどうすればいいのかわからない息苦しさを一度経なければならなかった。それが鎮まると堯はまた歩き出した。
何が彼を駆るのか。それは遠い地平へ落ちて行く太陽の姿だった。
彼の一日は低地を距《へだ》てた灰色の洋風の木造家屋に、どの日もどの日も消えてゆく冬の日に、もう堪えきることができなくなった。窓の外の風景が次第に蒼ざめた空気のなかへ没してゆくとき、それがすでにただの日蔭ではなく、夜と名付けられた日蔭だという自覚に、彼の心は不思議ないらだちを覚えて来るのだった。
「あああ大きな落日が見たい」
彼は家を出て遠い展望のきく場所を捜した。歳暮の町には餅搗《もちつ》きの音が起こっていた。花屋の前には梅と福寿草をあしらった植木鉢が並んでいた。そんな風俗画は、町がどこをどう帰っていいかわからなくなりはじめるにつれて、だんだん美しくなった。自分のまだ一度も踏まなかった路――そこでは米を磨《と》いでいる女も喧嘩《けんか》をしている子供も彼を立ち停まらせた。が、見晴らしはどこへ行っても、大きな屋根の影絵があり、夕焼空に澄んだ梢《こずえ》があった。そのたび、遠い地平へ落ちてゆく太陽の隠された姿が切ない彼の心に写った。
日の光に満ちた空気は地上をわずかも距《へだた》っていなかった。彼の満たされない願望は、ときに高い屋根の上へのぼり、空へ手を伸ばしている男を想像した。男の指の先はその空気に触れている。――また彼は水素を充《みた》した石鹸玉が、蒼ざめた人と街とを昇天させながら、その空気のなかへパッと七彩に浮かび上がる瞬間を想像した。
青く澄み透った空では浮雲が次から次へ美しく燃えていった。みたされない堯《たかし》の心の燠《おき》にも、やがてその火は燃えうつった。
「こんなに美しいときが、なぜこんなに短いのだろう」
彼はそんなときほどはかない気のするときはなかった。燃えた雲はまたつぎつぎに死灰になりはじめた。彼の足はもう進まなかった。
「あの空を涵《みた》してゆく影は地球のどの辺の影になるかしら。あすこの雲へゆかないかぎり今日ももう日は見られない」
にわかに重い疲れが彼に凭《もた》りかかる。知らない町の知らない町角で、堯《たかし》の心はもう再び明るくはならなかった。
底本:「檸檬・ある心の風景」旺文社文庫、旺文社
1972(昭和47)年12月10日初版発行
1974(昭和49)年第4刷発行
入力:j.utiyama
校正:野口英司
1998年10月17日公開
2005年10月7日修正
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