たかし》は重い疲労とともにそれを感じた。
彼が部屋で感覚する夜は、昨夜も一昨夜もおそらくは明晩もない、病院の廊下のように長く続いた夜だった。そこでは古い生活は死のような空気のなかで停止していた。思想は書棚を埋める壁土にしか過ぎなかった。壁にかかった星座早見表は午前三時が十月二十何日に目盛をあわせたまま埃《ほこり》をかぶっていた。夜更けて彼が便所へ通うと、小窓の外の屋根瓦には月光のような霜が置いている。それを見るときにだけ彼の心はほーっと明るむのだった。
固い寝床はそれを離れると午後にはじまる一日が待っていた。傾いた冬の日が窓のそとのまのあたり[#「まのあたり」に傍点]を幻燈のように写し出している、その毎日であった。そしてその不思議な日射しはだんだんすべてのものが仮象にしか過ぎないということや、仮象であるゆえ精神的な美しさに染められているのだということを露骨にして来るのだった。枇杷《びわ》が花をつけ、遠くの日溜りからは橙《だいだい》の実が目を射った。そして初冬の時雨《しぐれ》はもう霰《あられ》となって軒をはしった。
霰はあとからあとへ黒い屋根瓦を打ってはころころ転がった。トタン屋根を撲《う》つ音。やつでの葉を弾く音。枯草に消える音。やがてサアーというそれが世間に降っている音がきこえ出す。と、白い冬の面紗《ヴェイル》を破って近くの邸からは鶴の啼き声が起こった。堯の心もそんなときにはなにか新鮮な喜びが感じられるのだった。彼は窓際に倚《よ》って風狂というものが存在した古い時代のことを思った。しかしそれを自分の身に当て嵌《は》めることは堯にはできなかった。
五
いつの隙にか冬至が過ぎた。そんなある日|堯《たかし》は長らく寄りつかなかった、以前住んでいた町の質店へ行った。金が来たので冬の外套《がいとう》を出しに出掛けたのだった。が、行ってみるとそれはすでに流れたあとだった。
「××どんあれはいつ頃だったけ」
「へい」
しばらく見ない間にすっかり大人びた小店員が帳簿を繰った。
堯はその口上が割合すらすら出て来る番頭の顔が変に見え出した。ある瞬間には彼が非常な言い憎さを押し隠して言っているように見え、ある瞬間にはいかにも平気に言っているように見えた。彼は人の表情を読むのにこれほど戸惑ったことはないと思った。いつもは好意のある世間話をしてくれる番頭だった。
堯は番頭の言葉によって幾度も彼が質店から郵便を受けていたのをはじめて現実に思い出した。硫酸に侵されているような気持の底で、そんなことをこの番頭に聞かしたらというような苦笑も感じながら、彼もやはり番頭のような無関心を顔に装って一通りそれと一緒に処分されたものを聞くと、彼はその店を出た。
一匹の痩せ衰えた犬が、霜解けの路ばたで醜い腰付を慄《ふる》わせながら、糞をしようとしていた。堯《たかし》はなにか露悪的な気持にじりじり迫られるのを感じながら、嫌悪に堪えたその犬の身体つきを終わるまで見ていた。長い帰りの電車のなかでも、彼はしじゅう崩壊に屈しようとする自分を堪えていた。そして電車を降りてみると、家を出るとき持って出たはずの洋傘《こうもり》は――彼は持っていなかった。
あてもなく電車を追おうとする眼を彼は反射的にそらせた。重い疲労を引き摺《ず》りながら、夕方の道を帰って来た。その日町へ出るとき赤いものを吐いた、それが路ばたの槿《むくげ》の根方にまだひっかかっていた。堯には微《かす》かな身|慄《ぶる》いが感じられた。――吐いたときには悪いことをしたとしか思わなかったその赤い色に。――
夕方の発熱時が来ていた。冷たい汗が気味悪く腋の下を伝った。彼は袴《はかま》も脱がぬ外出姿のまま凝然《ぎょうぜん》と部屋に坐っていた。
突然|匕首《あいくち》のような悲しみが彼に触れた。次から次へ愛するものを失っていった母の、ときどきするとぼけたような表情を思い浮かべると、彼は静かに泣きはじめた。
夕餉《ゆうげ》をしたために階下へ下りる頃は、彼の心はもはや冷静に帰っていた。そこへ友達の折田というのが訪ねて来た。食欲はなかった。彼はすぐ二階へあがった。
折田は壁にかかっていた、星座表を下ろして来てしきりに目盛を動かしていた。
「よう」
折田はそれには答えず、
「どうだ。雄大じゃあないか」
それから顔をあげようとしなかった。堯《たかし》はふと息を嚥《の》んだ。彼にはそれがいかに壮大な眺めであるかが信じられた。
「休暇になったから郷里へ帰ろうと思ってやって来た」
「もう休暇かね。俺はこんどは帰らないよ」
「どうして」
「帰りたくない」
「うちからは」
「うちへは帰らないと手紙出した」
「旅行でもするのか」
「いや、そうじゃない」
折田はぎろと堯の目を見返したまま、もうその先を訊《き》
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