冬の日
梶井基次郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)堯《たかし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)犬の遠|吠《ぼ》え

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)漣※[#「さんずい+猗」、第3水準1−87−6]《さざなみ》
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     一

 季節は冬至に間もなかった。堯《たかし》の窓からは、地盤の低い家々の庭や門辺に立っている木々の葉が、一日ごと剥《は》がれてゆく様《さま》が見えた。
 ごんごん胡麻《ごま》は老婆の蓬髪《ほうはつ》のようになってしまい、霜に美しく灼《や》けた桜の最後の葉がなくなり、欅《けやき》が風にかさかさ身を震わすごとに隠れていた風景の部分が現われて来た。
 もう暁刻の百舌鳥《もず》も来なくなった。そしてある日、屏風《びょうぶ》のように立ち並んだ樫《かし》の木へ鉛色の椋鳥《むくどり》が何百羽と知れず下りた頃から、だんだん霜は鋭くなってきた。
 冬になって堯の肺は疼《いた》んだ。落葉が降り留っている井戸端の漆喰《しっくい》へ、洗面のとき吐く痰《たん》は、黄緑色からにぶい血の色を出すようになり、時にそれは驚くほど鮮かな紅《くれない》に冴えた。堯が間借り二階の四畳半で床を離れる時分には、主婦の朝の洗濯は夙《と》うに済んでいて、漆喰《しっくい》は乾いてしまっている。その上へ落ちた痰は水をかけても離れない。堯《たかし》は金魚の仔でもつまむようにしてそれを土管の口へ持って行くのである。彼は血の痰を見てももうなんの刺戟《しげき》でもなくなっていた。が、冷澄な空気の底に冴《さ》え冴《ざ》えとした一塊の彩《いろど》りは、何故かいつもじっと凝視《みつ》めずにはいられなかった。
 堯はこの頃生きる熱意をまるで感じなくなっていた。一日一日が彼を引き摺《ず》っていた。そして裡に住むべきところをなくした魂は、常に外界へ逃れよう逃れようと焦慮《あせ》っていた。――昼は部屋の窓を展《ひら》いて盲人のようにそとの風景を凝視《みつ》める。夜は屋の外の物音や鉄瓶《てつびん》の音に聾者《ろうじゃ》のような耳を澄ます。
 冬至に近づいてゆく十一月の脆《もろ》い陽ざしは、しかし、彼が床を出て一時間とは経たない窓の外で、どの日もどの日も消えかかってゆくのであった。翳《かげ》ってしまった低地には、彼の棲んでいる家の投影さえ没してしまっている。それを見ると堯の心には墨汁のような悔恨やいらだたしさが拡がってゆくのだった。日向はわずかに低地を距《へだ》てた、灰色の洋風の木造家屋に駐《とどま》っていて、その時刻、それはなにか悲しげに、遠い地平へ落ちてゆく入日を眺めているかのように見えた。
 冬陽は郵便受のなかへまで射しこむ。路上のどんな小さな石粒も一つ一つ影を持っていて、見ていると、それがみな埃及《エジプト》のピラミッドのような巨大《コロッサール》な悲しみを浮かべている。――低地を距てた洋館には、その時刻、並んだ蒼桐《あおぎり》の幽霊のような影が写っていた。向日性を持った、もやし[#「もやし」に傍点]のように蒼白い堯の触手は、不知不識《しらずしらず》その灰色した木造家屋の方へ伸びて行って、そこに滲《にじ》み込んだ不思議な影の痕《あと》を撫でるのであった。彼は毎日それが消えてしまうまでの時間を空虚な心で窓を展いていた。
 展望の北隅を支えている樫《かし》の並樹は、ある日は、その鋼鉄のような弾性で撓《し》ない踊りながら、風を揺りおろして来た。容貌をかえた低地にはカサコソと枯葉が骸骨《がいこつ》の踊りを鳴らした。
 そんなとき蒼桐の影は今にも消されそうにも見えた。もう日向とは思えないそこに、気のせいほどの影がまだ残っている。そしてそれは凩《こがらし》に追われて、砂漠のような、そこでは影の生きている世界の遠くへ、だんだん姿を掻《か》き消してゆくのであった。
 堯《たかし》はそれを見終わると、絶望に似た感情で窓を鎖しにかかる。もう夜を呼ぶばかりの凩に耳を澄ましていると、ある時はまだ電気も来ないどこか遠くでガラス戸の摧《くだ》け落ちる音がしていた。

        二

 堯は母からの手紙を受け取った。
「延子をなくしてから父上はすっかり老い込んでおしまいになった。おまえの身体も普通の身体ではないのだから大切にしてください。もうこの上の苦労はわたしたちもしたくない。
 わたしはこの頃夜中なにかに驚いたように眼が醒める。頭はおまえのことが気懸りなのだ。いくら考えまいとしても駄目です。わたしは何時間も眠れません。」
 堯はそれを読んである考えに悽然《せいぜん》とした。人びとの寝静まった夜を超えて、彼と彼の母が互いに互いを悩み
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