ると、戸外にはときどき小さい呼子のような声のものが鳴いた。
 十一時になって折田は帰って行った。帰るきわに彼は紙入のなかから乗車割引券を二枚、
「学校へとりにゆくのも面倒だろうから」と言って堯に渡した。

     六

 母から手紙が来た。
 ――おまえにはなにか変わったことがあるにちがいない。それで正月上京なさる津枝さんにおまえを見舞っていただくことにした。そのつもりでいなさい。
 帰らないと言うから春着を送りました。今年は胴着を作って入れておいたが、胴着は着物と襦袢《じゅばん》の間に着るものです。じかに着てはいけません。――
 津枝というのは母の先生の子息で今は大学を出て医者をしていた。が、かつて堯《たかし》にはその人に兄のような思慕を持っていた時代があった。
 堯は近くへ散歩に出ると、近頃はことに母の幻覚に出会った。母だ! と思ってそれが見も知らぬ人の顔であるとき、彼はよく変なことを思った。――すーっと変わったようだった。また母がもう彼の部屋へ来て坐りこんでいる姿が目にちらつき、家へ引き返したりした。が、来たのは手紙だった。そして来るべき人は津枝だった。堯の幻覚はやんだ。
 街を歩くと堯は自分が敏感な水準器になってしまったのを感じた。彼はだんだん呼吸が切迫して来る自分に気がつく。そして振り返って見るとその道は彼が知らなかったほどの傾斜をしているのだった。彼は立ち停まると激しく肩で息をした。ある切ない塊が胸を下ってゆくまでには、必ずどうすればいいのかわからない息苦しさを一度経なければならなかった。それが鎮まると堯はまた歩き出した。
 何が彼を駆るのか。それは遠い地平へ落ちて行く太陽の姿だった。
 彼の一日は低地を距《へだ》てた灰色の洋風の木造家屋に、どの日もどの日も消えてゆく冬の日に、もう堪えきることができなくなった。窓の外の風景が次第に蒼ざめた空気のなかへ没してゆくとき、それがすでにただの日蔭ではなく、夜と名付けられた日蔭だという自覚に、彼の心は不思議ないらだちを覚えて来るのだった。
「あああ大きな落日が見たい」
 彼は家を出て遠い展望のきく場所を捜した。歳暮の町には餅搗《もちつ》きの音が起こっていた。花屋の前には梅と福寿草をあしらった植木鉢が並んでいた。そんな風俗画は、町がどこをどう帰っていいかわからなくなりはじめるにつれて、だんだん美しくなった。自分のま
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