堯は番頭の言葉によって幾度も彼が質店から郵便を受けていたのをはじめて現実に思い出した。硫酸に侵されているような気持の底で、そんなことをこの番頭に聞かしたらというような苦笑も感じながら、彼もやはり番頭のような無関心を顔に装って一通りそれと一緒に処分されたものを聞くと、彼はその店を出た。
一匹の痩せ衰えた犬が、霜解けの路ばたで醜い腰付を慄《ふる》わせながら、糞をしようとしていた。堯《たかし》はなにか露悪的な気持にじりじり迫られるのを感じながら、嫌悪に堪えたその犬の身体つきを終わるまで見ていた。長い帰りの電車のなかでも、彼はしじゅう崩壊に屈しようとする自分を堪えていた。そして電車を降りてみると、家を出るとき持って出たはずの洋傘《こうもり》は――彼は持っていなかった。
あてもなく電車を追おうとする眼を彼は反射的にそらせた。重い疲労を引き摺《ず》りながら、夕方の道を帰って来た。その日町へ出るとき赤いものを吐いた、それが路ばたの槿《むくげ》の根方にまだひっかかっていた。堯には微《かす》かな身|慄《ぶる》いが感じられた。――吐いたときには悪いことをしたとしか思わなかったその赤い色に。――
夕方の発熱時が来ていた。冷たい汗が気味悪く腋の下を伝った。彼は袴《はかま》も脱がぬ外出姿のまま凝然《ぎょうぜん》と部屋に坐っていた。
突然|匕首《あいくち》のような悲しみが彼に触れた。次から次へ愛するものを失っていった母の、ときどきするとぼけたような表情を思い浮かべると、彼は静かに泣きはじめた。
夕餉《ゆうげ》をしたために階下へ下りる頃は、彼の心はもはや冷静に帰っていた。そこへ友達の折田というのが訪ねて来た。食欲はなかった。彼はすぐ二階へあがった。
折田は壁にかかっていた、星座表を下ろして来てしきりに目盛を動かしていた。
「よう」
折田はそれには答えず、
「どうだ。雄大じゃあないか」
それから顔をあげようとしなかった。堯《たかし》はふと息を嚥《の》んだ。彼にはそれがいかに壮大な眺めであるかが信じられた。
「休暇になったから郷里へ帰ろうと思ってやって来た」
「もう休暇かね。俺はこんどは帰らないよ」
「どうして」
「帰りたくない」
「うちからは」
「うちへは帰らないと手紙出した」
「旅行でもするのか」
「いや、そうじゃない」
折田はぎろと堯の目を見返したまま、もうその先を訊《き》
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