ら聞けない気がした。「そう言えば変だ」など言われる怖ろしさよりも、変じゃないかと自分から言ってしまえば自分で自分の変な所を承認したことになる。承認してしまえばなにもかもおしまいだ。そんな怖ろしさがあったのだった。そんなことを思いながらしかし自分の口は喋《しゃべ》っているのだった。
「引込んでいるのがいけないんだよ。もっと出て来るようにしたらいいんだ」玄関まで送って来た友人はそんなことを言った。自分はなにかそれについても言いたいような気がしたがうなずいたままで外へ出た。苦役《くえき》を果した後のような気持であった。
町にはまだ雪がちらついていた。古本屋を歩く。買いたいものがあっても金に不自由していた自分は妙に吝嗇《けち》になっていて買い切れなかった。「これを買うくらいなら先刻《さっき》のを買う」次の本屋へ行っては先刻の本屋で買わなかったことを後悔した。そんなことを繰り返しているうちに自分はかなり参って来た。郵便局で葉書を買って、家へ金の礼と友達へ無沙汰の詫《わび》を書く。机の前ではどうしても書けなかったのが割合すらすら書けた。
古本屋と思って入った本屋は新しい本ばかりの店であった。店に誰もいなかったのが自分の足音で一人奥から出て来た。仕方なしに一番安い文芸雑誌を買う。なにか買って帰らないと今夜が堪《たま》らないと思う。その堪らなさが妙に誇大されて感じられる。誇大だとは思っても、そう思って抜けられる気持ではなかった。先刻の古本屋へまた逆に歩いて行った。やはり買えなかった。吝嗇臭いぞと思ってみてもどうしても買えなかった。雪がせわしく降り出したので出張りを片付けている最後の本屋へ、先刻値を聞いて止《よ》した古雑誌を今度はどうしても買おうと決心して自分は入って行った。とっつきの店のそれもとっつきに値を聞いた古雑誌、それが結局は最後の選択になったかと思うと馬鹿気た気になった。他所《よそ》の小僧が雪を投げつけに来るのでその店の小僧はその方へ気をとられていた。覚えておいたはずの場所にそれが見つからないので、まさか店を間違えたのでもなかろうがと思って不安になってその小僧にきいてみた。
「お忘れ物ですか。そんなものはありませんでしたよ」言いながら小僧は他所《よそ》のをやっつけに行こう行こうとしてうわの空になっている。しかしそれはどうしても見つからなかった。さすがの自分も参っていた。足袋を一足買ってお茶の水へ急いだ。もう夜になっていた。
お茶の水では定期を買った。これから毎日学校へ出るとして一日往復いくらになるか電車のなかで暗算をする。何度やってもしくじった。その度《たび》たびに買うのと同じという答えが出たりする。有楽町で途中下車して銀座へ出、茶や砂糖、パン、牛酪《バター》などを買った。人通りが少い。ここでも三四人の店員が雪投げをしていた。堅《かた》そうで痛そうであった。自分は変に不愉快に思った。疲れ切ってもいた。一つには今日の失敗《しくじ》り方が余りひど過ぎたので、自分は反抗的にもなってしまっていた。八銭のパン一つ買って十銭で釣銭を取ったりなどしてしきりになにかに反抗の気を見せつけていた。聞いたものがなかったりすると妙に殺気立った。
ライオンへ入って食事をする。身体を温めて麦酒《ビール》を飲んだ。混合酒《カクテル》を作っているのを見ている。種々な酒を一つの器へ入れて蓋をして振っている。はじめは振っているがしまいには器に振られているような恰好をする。洋盃《グラス》へついで果物をあしらい盆にのせる。その正確な敏捷《びんしょう》さは見ていておもしろかった。
「お前達は並んでアラビア兵のようだ」
「そや、バグダッドの祭のようだ」
「腹が第一滅っていたんだな」
ずらっと並んだ洋酒の壜を見ながら自分は少し麦酒の酔いを覚えていた。
三
ライオンを出てからは唐物屋で石鹸を買った。ちぐはぐな気持はまたいつの間にか自分に帰っていた。石鹸を買ってしまって自分は、なにか今のは変だと思いはじめた。瞭然《はっき》りした買いたさを自分が感じていたのかどうか、自分にはどうも思い出せなかった。宙を踏んでいるようにたよりない気持であった。
「ゆめうつつ[#「ゆめうつつ」に傍点]で遣《や》ってるからじゃ」
過失などをしたとき母からよくそう言われた。その言葉が思いがけず自分の今|為《し》たことのなかにあると思った。石鹸は自分にとって途方もなく高価《たか》い石鹸であった。自分は母のことを思った。
「奎吉《けいきち》……奎吉!」自分は自分の名を呼んで見た。悲しい顔付をした母の顔が自分の脳裡《のうり》にはっきり映った。
――三年ほど前自分はある夜酒に酔って家へ帰ったことがあった。自分はまるで前後のわきまえをなくしていた。友達が連れて帰ってくれたのだったが、その友
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