達の話によると随分|非道《ひど》かったということで、自分はその時の母の気持を思って見るたびいつも黯然《あんぜん》となった。友達はあとでその時母が自分を叱った言葉だと言って母の調子を真似てその言葉を自分にきかせた。それは母の声そっくりと言いたいほど上手に模《も》してあった。単なる言葉だけでも充分自分は参っているところであった。友人の再現して見せたその調子は自分を泣かすだけの力を持っていた。
 模倣《もほう》というものはおかしいものである。友人の模倣を今度は自分が模倣した。自分に最も近い人の口調はかえって他所から教えられた。自分はその後に続く言葉を言わないでもただ奎吉《けいきち》と言っただけでその時の母の気持を生《い》きいきと蘇《よみが》えらすことができるようになった。どんな手段によるよりも「奎吉!」と一度声に出すことは最も直接であった。眼の前へ浮んで来る母の顔に自分は責められ励まされた。――
 空は晴れて月が出ていた。尾張町から有楽町へゆく鋪道《ほどう》の上で自分は「奎吉!」を繰り返した。
 自分はぞーっとした。「奎吉」という声に呼び出されて来る母の顔付がいつか異《ちが》うものに代っていた。不吉を司《つかさど》る者――そう言ったものが自分に呼びかけているのであった。聞きたくない声を聞いた。……
 有楽町から自分の駅まではかなりの時間がかかる。駅を下りてからも十分の余はかかった。夜の更《ふ》けた切り通し坂を自分はまるで疲れ切って歩いていた。袴《はかま》の捌《さば》ける音が変に耳についた。坂の中途に反射鏡のついた照明燈が道を照している。それを背にうけて自分の影がくっきり長く地を這《は》っていた。マントの下に買物の包みを抱えて少し膨《ふく》れた自分の影を両側の街燈が次には交互にそれを映し出した。後ろから起って来て前へ廻り、伸びて行って家の戸へ頭がひょっくり擡《もちあが》ったりする。慌《あわただ》しい影の変化を追っているうちに自分の眼はそのなかでもちっとも変化しない影を一つ見つけた。極く丈の詰った影で、街燈が間遠になると鮮《あざや》かさを増し、片方が幅を利かし出すとひそまってしまう。「月の影だな」と自分は思った。見上げると十六日十七日と思える月が真上を少し外れたところにかかっていた。自分は何ということなしにその影だけが親しいものに思えた。
 大きな通りを外れて街燈の疎《まば》
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