るものなのでしょうか。最初はなにか夕焼の反射をでも受けているのじゃないかなど疑いました。そんな赤さなのです。然し雨の日になってもそれは同じ。いつも同じでした。やはり樹自身の現象なのです。私は古人の「五月雨《さみだれ》の降り残してや光堂」の句を、日を距《へだ》ててではありましたが、思い出しました。そして椎茜《しいあかね》という言葉を造って下の五におきかえ嬉しい気がしました。中の七が降り残したる[#「たる」に傍点]ではなく、降り残してや[#「てや」に傍点]だったことも新しい眼で見得た気がしました。
 崖に面した窓の近くには手にとどく程の距離にかなひで[#「かなひで」に傍点]という木があります。朴《ほお》の一種だそうです。この花も五月闇《さつきやみ》のなかにふさわなくはないものだと思いました。然しなんと云っても堪らないのは梅雨期です。雨が続くと私の部屋には湿気が充満します。窓ぎわなどが濡れてしまっているのを見たりすると全く憂鬱になりました。変に腹が立って来るのです。空はただ重苦しく垂れ下っています。
「チョッ。ぼろ船の底」
 或る日も私はそんな言葉で自分の部屋をののしって見ました。そしてそのののしり方が自分がでに面白くて気は変りました。母が私にがみがみおこって来るときがあります。そしてしまいに突拍子もないののしり方をして笑ってしまうことがあります。ちょっとそう云った気持でした。私の空想はその言葉でぼろ船の底に畳を敷いて大きな川を旅している自分を空想させました。実際こんなときにこそ鬱陶《うっとう》しい梅雨《つゆ》の響きも面白さを添えるのだと思いました。

  四

 それもやはり雨の降った或る日の午後でした。私は赤坂のAの家へ出かけました。京都時代の私達の会合――その席へはあなたも一度来られたことがありますね――憶《おぼ》えていらっしゃればその時いたAです。
 この四月には私達の後、やはりあの会合を維持していた人びとが、三人も巣立って来ました。そしてもともと話のあったこととて、既に東京へ来ていた五人と共に、再び東京に於ての会合が始まりました。そして来年の一月から同人雑誌を出すこと、その費用と原稿を月々|貯《た》めてゆくことに相談が定ったのです。私がAの家へ行ったのはその積立金を持ってゆくためでした。
 最近Aは家との間に或る悶着《もんちゃく》を起していました。それは結婚問題なのです。Aが自分の欲している道をゆけば父母を捨てたことになります。少くも父母にとってはそうです。Aの問題は自《おのずか》ら友人である私の態度を要求しました。私は当初彼を冷そうとさえ思いました。少くとも私が彼の心を熱しさせてゆく存在であることを避けようと努めました。問題がそういう風に大きくなればなる程そうしなければならぬと思ったのです。――然しそれがどちらの旗色であれ、他人のたてたどんな旗色にも動かされる人間でないことを彼は段々証して来ております。普段にぼんやりとしかわからなかった人間の性格と云うものがこう云うときに際してこそその輪郭をはっきりあらわすものだということを私は今に於て知ります。彼もまたこの試練によってそれを深めてゆくのでしょう。私はそれを美しいと思います。
 Aの家へ私が着いたときは偶然新らしく東京へ来た連中が来ていました。そしてAの問題でAと家との間へ入った調停者の手紙に就て論じ合っていました。Aはその人達をおいて買物に出ていました。その日も私は気持がまるでふさいでいました。その話をききながらひとりぼっちの気持で黙り込んでいました。するとそのうちに何かのきっかけで「Aの気持もよくわかっていると云うのならなぜ此方《こっち》を骨折ろうとしないんだ」という言葉を聞きました。調子のきびしい言葉でした。それが調停者に就て云われている言葉であることは申すまでもありません。
 私の心はなんだかびりりとしました。知るということと行うということとに何ら距りをつけないと云った生活態度の強さが私を圧迫したのです。単にそればかりではありません。私は心のなかで暗にその調停者の態度を是認していました。更に云えば「その人の気持もわかる」と思っていたからです。私は両方共わかっているというのは両方とも知らないのだと反省しないではいられませんでした。便りにしていたものが崩れてゆく何とも云えないいやな気持です。Aの両親さえ私にはそっぽを向けるだろうと思いました。一方の極へおとされてゆく私の気持は、然し、本能的な逆の力と争いはじめました。そしてAの家を出る頃ようやく調和したくつろぎに帰ることが出来ました。Aが使《つかい》から帰って来てからは皆の話も変って専《もっぱ》ら来年の計画の上に落ちました。Rのつけた雑誌の名前を繰り返し繰り返し喜び、それと定まるまでの苦心を滑稽化して笑いました。私の興
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