ことです。筆記帳を捨ててしまいたくなるのです。そんなことを思い出した末、私はその年少の友の反省の為に、大切に使われよく繕われた古い器具の奥床しさを折があれば云って見たいと思いました。ひびへ漆を入れた茶器を現に二人が讃《ほ》めたことがあったのです。
紅潮した身体には細い血管までがうっすら膨《ふく》れあがっていました。両腕を屈伸させてぐりぐりを二の腕や肩につけて見ました。鏡のなかの私は私自身よりも健康でした。私は顔を先程したようにおどけた表情で歪ませて見ました。
Hysterica Passio ――そう云って私はとうとう笑い出しました。
一年中で私の最もいやな時期ももう過ぎようとしています。思い出してみれば、どうにも心の動きがつかなかったような日が多かったなかにも、南葵《なんき》文庫の庭で忍冬《すいかずら》の高い香を知ったようなときもあります。霊南坂で鉄道草の香りから夏を越した秋がもう間近に来ているのだと思ったような晩もあります。妄想で自らを卑屈にすることなく、戦うべき相手とこそ戦いたい、そしてその後の調和にこそ安んじたいと願う私の気持をお伝えしたくこの筆をとりました。
――一九二五年十月――[#この日付は行末に記す]
底本:「檸檬」新潮文庫、新潮社
1967(昭和42)年12月10日初版発行
1990(平成2)年1月20日46刷
入力:田中久太郎
校正:久保あきら
1999年8月31日公開
青空文庫作成ファイル:
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