橡《とち》の花
――或る私信――
梶井基次郎

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)橡《とち》の花

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)段々|堪《たま》らないのが

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   (数字は、底本のページと行数)
(例)わげ[#「わげ」に傍点]
−−

  一

 この頃の陰鬱な天候に弱らされていて手紙を書く気にもなれませんでした。以前京都にいた頃は毎年のようにこの季節に肋膜《ろくまく》を悪くしたのですが、此方《こちら》へ来てからはそんなことはなくなりました。一つは酒類を飲まなくなったせいかも知れません。然しやはり精神が不健康になります。感心なことを云うと云ってあなたは笑うかも知れませんが、学校へ行くのが実に億劫《おっくう》でした。電車に乗ります。電車は四十分かかるのです。気持が消極的になっているせいか、前に坐っている人が私の顔を見ているような気が常にします。それが私の独《ひと》り相撲だとは判っているのです。と云うのは、はじめは気がつきませんでしたが、まあ云えば私自身そんな視線を捜しているという工合なのです。何気ない眼附きをしようなど思うのが抑ゝ《そもそも》の苦しむもとです。
 また電車のなかの人に敵意とはゆかないまでも、棘々《とげとげ》しい心を持ちます。これもどうかすると変に人びとのアラを捜しているようになるのです。学生の間に流行《はや》っているらしい太いズボン、変にべたっとした赤靴。その他。その他。私の弱った身体《からだ》にかなわないのはその悪趣味です。なにげなくやっているのだったら腹も立ちません。必要に迫られてのことだったら好意すら持てます。然しそうだとは決して思えないのです。浅はかな気がします。
 女の髪も段々|堪《たま》らないのが多くなりました。――あなたにお貸しした化物の本のなかに、こんな絵があったのを御存じですか。それは女のお化けです。顔はあたり前ですが、後頭部に――その部分がお化けなのです。貪婪《どんらん》な口を持っています。そして解《ほぐ》した髪の毛の先が触手の恰好に化けて、置いてある鉢から菓子をつかみ、その口へ持ってゆこうとしているのです。が、女はそれを知っているのか知らないのか、あたりまえの顔で前を向いています。――私はそれを見たときいやな気がしまし
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