怒り方をした。
「どんなに叱られてもいいわ」と言って信子は泣いた。
しかし安心は続かなかった。信子はしばらくして寝ついた。彼女の母が呼ばれた。医者は腎臓の故障だと診《み》て帰った。
行一は不眠症になった。それが研究所での実験の一頓挫《いちとんざ》と同時に来た。まだ若く研究に劫《こう》の経ない行一は、その性質にも似ず、首尾不首尾の波に支配されるのだ。夜、寝つけない頭のなかで、信子がきっと取返しがつかなくなる思いに苦しんだ。それに屈服する。それが行一にはもう取返しのつかぬことに思えた。
「バッタバッタバッタ」鼓翼の風を感じる。「コケコッコウ」
遠くに競争者が現われる。こちらはいかにも疲れている。あちらの方がピッチが出ている。
「……」とうとう止してしまった。
「コケコッコウ」
一声――二声――三声――もう鳴かない。ゴールへ入ったんだ。行一はいつか競漕《レース》に結びつけてそれを聞くのに慣れてしまった。
四
「あの、電車の切符を置いてってくださいな」靴の紐《ひも》を結び終わった夫に帽子を渡しながら、信子は弱よわしい声を出した。
「今日はまだどこへも出られないよ。こちらから見ると顔がまだむくんでいる」
「でも……」
「でもじゃないよ」
「お母さん……」
「お姑《かあ》さんには行ってもらうさ」
「だから……」
「だから切符は出すさ」
「はじめからそのつもりで言ってるんですわ」信子は窶《やつ》れの見える顔を、意味のある表情で微笑《ほほえ》ませた。(またぼんやりしていらっしゃる)――娘むすめした着物を着ている。それが産み日に近い彼女には裾がはだけ勝ちなくらいだ。
「今日はひょっとしたら大槻《おおつき》の下宿へ寄るかもしれない。家捜しが手間どったら寄らずに帰る」切り取った回数券はじかに細君の手へ渡してやりながら、彼は六ヶ敷《むつかし》い顔でそう言った。
「ここだった」と彼は思った。灌木《かんぼく》や竹藪《たけやぶ》の根が生《なま》なました赤土から切口を覗かせている例の切通し坂だった。
――彼がそこへ来かかると、赤土から女の太腿《ふともも》が出ていた。何本も何本もだった。
「何だろう」
「それは××が南洋から持って帰って、庭へ植えている○○の木の根だ」
そう言ったのはいつの間にやって来たのか友人の大槻の声だった。彼は納得がいったような気がした。と同時に切り通
前へ
次へ
全7ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
梶井 基次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング