という気持に打たれた。
 時どき、先ほどの老人のようにやって来ては涼をいれ、景色を眺めてはまた立ってゆく人があった。
 峻がここへ来る時によく見る、亭《ちん》の中で昼寝をしたり海を眺めたりする人がまた来ていて、今日は子守娘と親しそうに話をしている。
 蝉取竿《せみとりざお》を持った子供があちこちする。虫籠を持たされた児《こ》は、時どき立ち留まっては籠の中を見、また竿の方を見ては小走りに随《つ》いてゆく。物を言わないでいて変に芝居のようなおもしろさが感じられる。
 またあちらでは女の子達が米つきばった[#「米つきばった」に傍点]を捕えては、「ねぎさん米つけ、何とか何とか」と言いながら米をつかせている。ねぎさん[#「ねぎさん」に傍点]というのはこの土地の言葉で神主《かんぬし》のことを言うのである。峻《たかし》は善良な長い顔の先に短い二本の触覚を持った、そう思えばいかにも神主めいたばった[#「ばった」に傍点]が、女の子に後脚を持たれて身動きのならないままに米をつくその恰好が呑気《のんき》なものに思い浮かんだ。
 女の子が追いかける草のなかを、ばったは二本の脚を伸ばし、日の光を羽根一ぱいに負いながら、何匹も飛び出した。
 時どき烟《けむり》を吐く煙突があって、田野はその辺《あた》りから展《ひら》けていた。レンブラントの素描めいた風景が散らばっている。
 黝《くろ》い木立。百姓家。街道。そして青田のなかに褪赭《たいしゃ》の煉瓦《れんが》の煙突。
 小さい軽便が海の方からやって来る。
 海からあがって来た風は軽便の煙を陸の方へ、その走る方へ吹きなびける。
 見ていると煙のようではなくて、煙の形を逆に固定したまま玩具の汽車が走っているようである。
 ササササと日が翳《かげ》る。風景の顔色が見る見る変わってゆく。
 遠く海岸に沿って斜に入り込んだ入江が見えた。――峻はこの城跡へ登るたび、幾度となくその入江を見るのが癖になっていた。
 海岸にしては大きい立木が所どころ繁っている。その蔭にちょっぴり人家の屋根が覗《のぞ》いている。そして入江には舟が舫《もや》っている気持。
 それはただそれだけの眺めであった。どこを取り立てて特別心を惹《ひ》くようなところはなかった。それでいて変に心が惹かれた。
 なにかある。ほんとうになにかがそこにある。と言ってその気持を口に出せば、もう空ぞらしいもの
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