いる者の声だった。その声はよく透《とお》り、一日中変わってゆく渓あいの日射《ひざ》しのなかでよく響いた。そのころ毎日のように渓間を遊び恍《ほう》けていた私はよくこんなことを口ずさんだ。
――ニシビラへ行けばニシビラの瑠璃、セコノタキへ来ればセコノタキの瑠璃。――
そして私の下りて来た瀬の近くにも同じような瑠璃が一羽いたのである。私ははたして河鹿の鳴きしきっているのを聞くとさっさと瀬のそばまで歩いて行った。すると彼らの音楽ははたと止まった。しかし私は既定の方針通りにじっと蹲《うずく》まっておればよいのである。しばらくして彼らはまた元通りに鳴き出した。この瀬にはことにたくさんの河鹿がいた。その声は瀬をどよもして響いていた。遠くの方から風の渡るように響いて来る。それは近くの瀬の波頭の間から高まって来て、眼の下の一団で高潮に達しる。その伝播《でんぱ》は微妙で、絶えず湧《わ》き起り絶えず揺れ動く一つのまぼろしを見るようである。科学の教えるところによると、この地球にはじめて声[#「声」に傍点]を持つ生物が産まれたのは石炭紀の両棲類《りょうせいるい》だということである。だからこれがこの地球に響いた最初の生の合唱だと思うといくらか壮烈な気がしないでもない。実際それは聞く者の心を震わせ、胸をわくわくさせ、ついには涙を催させるような種類の音楽である。
私の眼の下にはこのとき一匹の雄《おす》がいた。そして彼もやはりその合唱の波のなかに漂いながら、ある間《ま》をおいては彼の喉《のど》を震わせていたのである。私は彼の相手がどこにいるのだろうかと捜して見た。流れを距《へだ》てて一尺ばかり離れた石の蔭《かげ》におとなしく控えている一匹がいる。どうもそれらしい。しばらく見ているうちに私はそれが雄の鳴くたびに「ゲ・ゲ」と満足気な声で受け答えをするのを発見した。そのうちに雄の声はだんだん冴えて来た。ひたむきに鳴くのが私の胸へも応《こた》えるほどになって来た。しばらくすると彼はまた突然に合唱のリズムを紊《みだ》しはじめた。鳴く間がたんだん迫って来たのである。もちろん雌は「ゲ・ゲ」とうなずいている。しかしこれは声の振わないせいか雄の熱情的なのに比べて少し呑気《のんき》に見える。しかし今に何事かなくてはならない。私はその時の来るのを待っていた。すると、案の定、雄はその烈《はげ》しい鳴き方をひたと鳴きやめたと思う間に、するすると石を下りて水を渡りはじめた。このときその可憐《かれん》な風情《ふぜい》ほど私を感動させたものはなかった。彼が水の上を雌に求め寄ってゆく、それは人間の子供が母親を見つけて甘え泣きに泣きながら駆《か》け寄って行くときと少しも変ったことはない。「ギョ・ギョ・ギョ・ギョ」と鳴きながら泳いで行くのである。こんな一心にも可憐な求愛があるものだろうか。それには私はすっかりあて[#「あて」に傍点]られてしまったのである。
もちろん彼は幸福に雌の足下へ到《いた》り着いた。それから彼らは交尾した。爽《さわ》やかな清流のなかで。――しかし少なくとも彼らの痴情の美しさは水を渡るときの可憐さに如《し》かなかった。世にも美しいものを見た気持で、しばらく私は瀬を揺がす河鹿の声のなかに没していた。
底本:「日本文学全集別巻1現代名作集」河出書房
1969(昭和44)年5月30日初版発行
入力:kaku
校正:浜野 智
1998年8月28日公開
2003年9月7日修正
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