物凄かった。海で泳ぐものは一人もない。波の間に枕などが浮いていると恐ろしいもののような気がした。その島には井戸が一つしかなかった。
 暗礁については一度こんなことがあった。ある年の秋、ある晩、夜のひき明けにかけてひどい暴風雨があった。明方物凄い雨風の音のなかにけたたましい鉄工所の非常汽笛が鳴り響いた。そのときの悲壮な気持を僕は今もよく覚えている。家は騒ぎ出した。人が飛んで来た。港の入口の暗礁へ一隻の駆逐艦《くちくかん》が打《ぶ》つかって沈んでしまったのだ。鉄工所の人は小さなランチヘ波の凌《しの》ぎに長い竹竿を用意して荒天のなかを救助に向かった。しかし現場へ行って見ても小さなランチは波に揉まれるばかりで結局かえって邪魔をしに行ったようなことになってしまった。働いたのは島の海女《あま》で、激浪のなかを潜っては屍体を引き揚げ、大きな焚火《たきび》を焚《た》いてそばで冷え凍えた水兵の身体を自分らの肌で温めたのだ。大部分の水兵は溺死した。その溺死体の爪は残酷なことにはみな剥《は》がれていたという。
 それは岩へ掻きついては波に持ってゆかれた恐ろしい努力を語るものだった。
 暗礁に乗りあげた駆逐艦の残骸は、山へあがって見ると干潮時の遠い沖合に姿を現わしていることがあった。



底本:「檸檬・ある心の風景」旺文社文庫、旺文社
   1972(昭和47)年12月10日初版発行
   1974(昭和49)年第4刷発行
入力:j.utiyama
校正:Juki
1998年12月14日公開
2003年10月11日修正
青空文庫作成ファイル:
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