斉に息を殺してその微妙な音に絶え入っていた。ふとその完全な窒息に眼覚めたとき、愕然《がくぜん》と私はしたのだ。
「なんという不思議だろうこの石化は? 今なら、あの白い手がたとえあの上で殺人を演じても、誰一人叫び出そうとはしないだろう」
 私は寸時まえの拍手とざわめきとをあたかも夢のように思い浮かべた。それは私の耳にも目にもまだはっきり残っていた。あんなにざわめいていた人びとが今のこの静けさ――私にはそれが不思議な不思議なことに思えた。そして人びとは誰一人それを疑おうともせずひたむきに音楽を追っている。言いようもないはかなさが私の胸に沁《し》みて来た。私は涯《はて》もない孤独を思い浮かべていた。音楽会――音楽会を包んでいる大きな都会――世界。……小曲は終わった。木枯《こがらし》のような音が一しきり過ぎていった。そのあとはまたもとの静けさのなかで音楽が鳴り響いていった。もはやすべてが私には無意味だった。幾たびとなく人びとがわっわっとなってはまたすーっとなっていったことが何を意味していたのか夢のようだった。
 最後の拍手とともに人びとが外套《がいとう》と帽子を持って席を立ちはじめる会の終わり
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