出している母らしいひとの眼を彼は避けた。その家が見つかれば道は憶《おぼ》えていた。彼はその方へ歩き出した。
 彼は往来に立ち竦《すく》んだ。十三年前の自分が往来を走っている! ――その子供は何も知らないで、町角を曲って見えなくなってしまった。彼は泪《なみだ》ぐんだ。何という旅情だ! それはもう嗚咽《おえつ》に近かった。

 ある夜、彼は散歩に出た。そしていつの間にか知らない路を踏み迷っていた。それは道も灯もない大きな暗闇であった。探りながら歩いてゆく足が時どき凹《へこ》みへ踏み落ちた。それは泣きたくなる瞬間であった。そして寒さは衣服に染《し》み入ってしまっていた。
 時刻は非常に晩《おそ》くなったようでもあり、またそんなでもないように思えた。路をどこから間違ったのかもはっきりしなかった。頭はまるで空虚であった。ただ、寒さだけを覚えた。
 彼は燐寸《マツチ》の箱を袂《たもと》から取り出そうとした。腕組みしている手をそのまま、右の手を左の袂へ、左の手を右の袂へ突込んだ。燐寸はあった。手では掴《つか》んでいた。しかしどちらの手で掴んでいるのか、そしてそれをどう取出すのか分らなかった。
 暗闇に点《とも》された火は、また彼の空虚な頭の中に点された火でもあった。彼は人心地を知った。
 一本の燐寸の火が、焔《ほのお》が消えて炭火になってからでも、闇に対してどれだけの照力を持っていたか、彼ははじめて知った。火が全く消えても、少しの間は残像が彼を導いた――
 突然烈しい音響が野の端から起こった。
 華ばなしい光の列が彼の眼の前を過《よぎ》って行った。光の波は土を匍《は》って彼の足もとまで押し寄せた。
 汽鑵車の烟《けむり》は火になっていた。反射をうけた火夫が赤く動いていた。
 客車。食堂車。寝台車。光と熱と歓語で充たされた列車。
 激しい車輪の響きが彼の身体に戦慄《せんりつ》を伝えた。それははじめ荒々しく彼をやっつけたが、遂には得体の知れない感情を呼び起こした。涙が流れ出た。
 響きは遂に消えてしまった。そのままの普段着で両親の家へ、急行に乗って、と彼は涙の中に決心していた。



底本:「檸檬・ある心の風景」旺文社文庫、旺文社
   1972(昭和47)年12月10日初版発行
   1974(昭和49)年第4刷発行
入力:j.utiyama
校正:野口英司
1998年9月19日公
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