かがはいって来るような気がして――」
私は別にそれがどんなものかは聞きはしなかった。彼女の言葉に同感の意を表して、やはり自分のあれは本当なんだなと思ったのである。ときどき私はその「牢門」から溪へ出て見ることがあった。轟々たる瀬のたぎりは白蛇の尾を引いて川下の闇へ消えていた。向こう岸には闇よりも濃い樹の闇、山の闇がもくもくと空へ押しのぼっていた。そのなかで一本|椋《むく》の樹の幹だけがほの白く闇のなかから浮かんで見えるのであった。
これはすばらしい銅板画のモテイイフである。黙々とした茅屋《ぼうおく》の黒い影。銀色に浮かび出ている竹藪の闇。それだけ。わけもなく簡単な黒と白のイメイジである。しかしなんという言いあらわしがたい感情に包まれた風景か。その銅板画にはここに人が棲んでいる。戸を鎖し眠りに入っている。星空の下に、闇黒のなかに。彼らはなにも知らない。この星空も、この闇黒も。虚無から彼らを衛《まも》っているのは家である。その忍苦の表情を見よ。彼は虚無に対抗している。重圧する畏怖《いふ》の下に、黙々と憐れな人間の意図を衛っている。
一番はしの家はよそから流れて来た浄瑠璃語りの家である
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