壁を溪に向かって回《めぐ》らされていた。それは豪雨のために氾濫する虞《おそ》れのある溪の水を防ぐためで、溪ぎわへ出る一つの出口がある切りで、その浴場に地下牢のような感じを与えるのに成功していた。
何年か前まではこの温泉もほんの茅葺《かやぶき》屋根の吹き曝《さら》しの温泉で、桜の花も散り込んで来たし、溪の眺めも眺められたし、というのが古くからこの温泉を知っている浴客のいつもの懐旧談であったが、多少牢門じみた感じながら、その溪へ出口のアーチのなかへは溪の楓が枝を差し伸べているのが見えたし,瀬のたぎりの白い高まりが眼の高さに見えたし、時にはそこを弾丸のように擦過してゆく川烏の姿も見えた。
また壁と壁の支えあげている天井との間のわずかの隙間からは、夜になると星も見えたし、桜の花片だって散り込んで来ないことはなかったし、ときには懸巣《かけす》の美しい色の羽毛がそこから散り込んで来ることさえあった。
底本:「檸檬・ある心の風景」旺文社文庫、旺文社
1972(昭和47)年12月10日初版発行
1974(昭和49)年第4刷発行
入力:j.utiyama
校正:二宮知美
1998年
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