温泉
梶井基次郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)溪《たに》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一本|椋《むく》の樹

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「者/火」、第3水準1−87−52]《に》ながら、
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     断片 一

 夜になるとその谷間は真黒な闇に呑まれてしまう。闇の底をごうごうと溪《たに》が流れている。私の毎夜下りてゆく浴場はその溪ぎわにあった。
 浴場は石とセメントで築きあげた、地下牢のような感じの共同湯であった。その巌丈《がんじょう》な石の壁は豪雨のたびごとに汎濫する溪の水を支えとめるためで、その壁に刳《く》り抜かれた溪ぎわへの一つの出口がまた牢門そっくりなのであった。昼間その温泉に涵《ひた》りながら「牢門」のそとを眺めていると、明るい日光の下で白く白く高まっている瀬のたぎりが眼の高さに見えた。差し出ている楓《かえで》の枝が見えた。そのアーチ形の風景のなかを弾丸のように川烏《かわう》が飛び抜けた。
 また夕方、溪ぎわへ出ていた人があたりの暗くなったのに驚いてその門へ引返して来ようとするとき、ふと眼の前に――その牢門のなかに――楽しく電燈がともり、濛々《もうもう》と立ち罩《こ》めた湯気のなかに、賑やかに男や女の肢体が浮動しているのを見る。そんなとき人は、今まで自然[#「自然」に傍点]のなかで忘れ去っていた人間仲間[#「人間仲間」に傍点]の楽しさを切なく胸に染めるのである。そしてそんなこともこのアーチ形の牢門のさせるわざ[#「わざ」に傍点]なのであった。
 私が寐る前に入浴するのはいつも人々の寝しずまった真夜中であった。その時刻にはもう誰も来ない。ごうごうと鳴り響く溪の音ばかりが耳について、おきまりの恐怖が変に私を落着かせないのである。もっとも恐怖とはいうものの、私はそれを文字通りに感じていたのではない。文字通りの気持から言えば、身体に一種の抵抗《リフラクシオン》を感じるのであった。だから夜更けて湯へゆくことはその抵抗だけのエネルギーを余分に持って行かなければならないといつも考えていた。またそう考えることは定まらない不安定な、埓《らち》のない恐怖にある限界を与えることになるのであった。しかしそうやって毎夜おそく湯へ下りてゆくのがたび重なるとともに、私は自分の恐怖があるきまった形を持っているのに気がつくようになった。それを言って見ればこうである。
 その浴場は非常に広くて真中で二つに仕切られていた。一つは村の共同湯に、一つは旅館の客にあててあった。私がそのどちらかにはいっていると、きまってもう一つの方の湯に何かが来ている気がするのである。村の方の湯にはいっているときには、きまって客の湯の方に男女のぽそぽそ話しをする声がきこえる。私はその声のもと[#「もと」に傍点]を知っていた。それは浴場についている水口で、絶えず清水がほとばしり出ているのである。また男女という想像の由《よ》って来るところもわかっていた。それは溪の上にだるま茶屋があって、そこの女が客と夜更けて湯へやって来ることがありうべきことだったのである。そういうことがわかっていながらやはり変に気になるのである。男女の話声が水口の水の音だとわかっていながら、不可抗的に実体をまとい出す。その実体がまた変に幽霊のような性質のものに思えて来る。いよいよそうなって来ると私はどうでも一度隣の湯を覗《のぞ》いて見てそれを確めないではいられなくなる。それで私はほんとうにそんな人達が来ているときには自分の顔が変な顔をしていないようにその用意をしながら、とりあいの窓のところまで行ってその硝子《ガラス》戸を開けて見るのである。しかし案の定なんにもいない。
 次は客の湯の方へはいっているときである。例によって村の湯の方がどうも気になる。今度は男女の話声ではない。気になるのはさっきの溪への出口なのである。そこから変な奴がはいって来そうな気がしてならない。変な奴ってどんな奴なんだと人はきくにちがいない。それが実にいやな変な奴なのである。陰鬱な顔をしている。河鹿《かじか》のような膚をしている。そいつが毎夜極った時刻に溪から湯へ漬かりに来るのである。プフウ! なんという馬鹿げた空想をしたもんだろう。しかし私はそいつが、別にあたりを見廻すというのでもなく、いかにも毎夜のことのように陰鬱な表情で溪からはいって来る姿に、ふと私が隣の湯を覗いた瞬間、私の視線にぶつかるような気がしてならなかったのである。
 あるとき一人の女の客が私に話をした。
「私も眠れなくて夜中に一度湯へはいるのですが、なんだか気味が悪るござんしてね。隣の湯へ溪から何
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