な感じである。私はその橋を渡るたびに私の眼がいつもなんとなくそれを見るのを避けたがるのを感じていた。
下流の方を眺めると、溪が瀬をなして轟々《ごうごう》と激していた。瀬の色は闇のなかでも白い。それはまた尻《し》っ尾《ぽ》のように細くなって下流の闇のなかへ消えてゆくのである。溪の岸には杉林のなかに炭焼小屋があって、白い煙が切り立った山の闇を匍《は》い登っていた。その煙は時として街道の上へ重苦しく流れて来た。だから街道は日によってはその樹脂臭い匂いや、また日によっては馬力の通った昼間の匂いを残していたりするのだった。
橋を渡ると道は溪《たに》に沿ってのぼってゆく。左は溪の崖。右は山の崖。行手に白い電燈がついている。それはある旅館の裏門で、それまでのまっすぐな道である。この闇のなかでは何も考えない。それは行手の白い電燈と道のほんのわずかの勾配のためである。これは肉体に課せられた仕事を意味している。目ざす白い電燈のところまでゆきつくと、いつも私は息切れがして往来の上で立ち留った。呼吸困難。これはじっとしていなければいけないのである。用事もないのに夜更けの道に立ってぼんやり畑を眺めているようなふうをしている。しばらくするとまた歩き出す。
街道はそこから右へ曲がっている。溪沿いに大きな椎の木がある。その木の闇はいたって巨大だ。その下に立って見上げると、深い大きな洞窟《どうくつ》のように見える。梟《ふくろう》の声がその奥にしていることがある。道の傍らには小さな字《あざ》があって、そこから射して来る光が、道の上に押し被《かぶ》さった竹藪《たけやぶ》を白く光らせている。竹というものは樹木のなかで最も光に感じやすい。山のなかの所どころに簇《む》れ立っている竹藪。彼らは闇のなかでもそのありかをほの白く光らせる。
そこを過ぎると道は切り立った崖を曲がって、突如ひろびろとした展望のなかへ出る。眼界というものがこうも人の心を変えてしまうものだろうか。そこへ来ると私はいつも今が今まで私の心を占めていた煮え切らない考えを振るい落としてしまったように感じるのだ。私の心には新しい決意が生まれて来る。秘《ひそ》やかな情熱が静かに私を満たして来る。
この闇の風景は単純な力強い構成を持っている。左手には溪の向こうを夜空を劃《くぎ》って爬虫《はちゅう》の背のような尾根が蜿蜒《えんえん》と匍《は》っている。黒ぐろとした杉林がパノラマのように廻《めぐ》って私の行手を深い闇で包んでしまっている。その前景のなかへ、右手からも杉山が傾きかかる。この山に沿って街道がゆく。行手は如何《いかん》ともすることのできない闇である。この闇へ達するまでの距離は百|米《メートル》あまりもあろうか。その途中にたった一軒だけ人家があって、楓《かえで》のような木が幻燈のように光を浴びている。大きな闇の風景のなかでただそこだけがこんもり明るい。街道もその前では少し明るくなっている。しかし前方の闇はそのためになおいっそう暗くなり街道を呑《の》み込んでしまう。
ある夜のこと、私は私の前を私と同じように提灯《ちょうちん》なしで歩いてゆく一人の男があるのに気がついた。それは突然その家の前の明るみのなかへ姿を現わしたのだった。男は明るみを背にしてだんだん闇のなかへはいって行ってしまった。私はそれを一種異様な感動を持って眺めていた。それは、あらわに言ってみれば、「自分もしばらくすればあの男のように闇のなかへ消えてゆくのだ。誰かがここに立って見ていればやはりあんなふうに消えてゆくのであろう」という感動なのであったが、消えてゆく男の姿はそんなにも感情的であった。
その家の前を過ぎると、道は溪《たに》に沿った杉林にさしかかる。右手は切り立った崖である。それが闇のなかである。なんという暗い道だろう。そこは月夜でも暗い。歩くにしたがって暗さが増してゆく。不安が高まって来る。それがある極点にまで達しようとするとき、突如ごおっという音が足下から起こる。それは杉林の切れ目だ。ちょうど真下に当る瀬の音がにわかにその切れ目から押し寄せて来るのだ。その音は凄《すさ》まじい。気持にはある混乱が起こって来る。大工とか左官とかそういった連中が溪のなかで不可思議な酒盛りをしていて、その高笑いがワッハッハ、ワッハッハときこえて来るような気のすることがある。心が捩《ね》じ切れそうになる。するとそのとたん、道の行手にパッと一箇の電燈が見える。闇はそこで終わったのだ。
もうそこからは私の部屋は近い。電燈の見えるところが崖の曲り角で、そこを曲がればすぐ私の旅館だ。電燈を見ながらゆく道は心易い。私は最後の安堵《あんど》とともにその道を歩いてゆく。しかし霧の夜がある。霧にかすんでしまって電燈が遠くに見える。行っても行ってもそこまで行きつけない
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
梶井 基次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング