ぶれた声で物を言うのでいっそう人に軽蔑的な印象を与えるからで、それは多少人びとには軽蔑されてはいても、おもしろ半分にでも手真似で話してくれる人があり、鼻のつぶれた声でもその話を聞いてくれる人があってこそ、そのお婆さんも何の気兼《きがね》もなしに近所仲間の仲間入りができるので、それが飾りもなにもないこうした町の生活の真実なんだということはいろいろなことを知ってみてはじめて吉田にも会得《えとく》のゆくことなのだった。
 そんなふうではじめ吉田にはその娘のことよりもお婆さんのことがその荒物屋についての知識を占めていたのであるが、だんだんその娘のことが自分のことにも関聯して注意されて来たのはだいぶんその娘の容態も悪くなって来てからであった。近所の人の話ではその荒物屋の親爺さんというのが非常に吝嗇《けち》で、その娘を医者にもかけてやらなければ薬も買ってやらないということであった。そしてただその娘の母親であるさっきのお婆さんだけがその娘の世話をしていて、娘は二階の一《ひ》と間に寝たきり、その親爺さんも息子もそしてまだ来て間のないその息子の嫁も誰もその病人には寄りつかないようにしているということを言っていた。そして吉田はあるときその娘が毎日食後に目高《めだか》を五匹宛|嚥《の》んでいるという話をきいたときは「どうしてまたそんなものを」という気持がしてにわかにその娘を心にとめるようになったのだが、しかしそれは吉田にとってまだまだ遠い他人事《ひとごと》の気持なのであった。
 ところがその後しばらくしてそこの嫁が吉田の家へ掛取《かけと》りに来たとき、家の者と話をしているのを吉田がこちらの部屋のなかで聞いていると、その目高《めだか》を嚥《の》むようになってから病人が工合がいいと言っているということや、親爺さんが十日に一度ぐらいそれを野原の方へ取りに行くという話などをしてから最後に、
「うちの網はいつでも空《あ》いてますよって、お家の病人さんにもちっと取って来て飲ましてあげはったらどうです」
 というような話になって来たので吉田は一時に狼狽《ろうばい》してしまった。吉田は何よりも自分の病気がそんなにも大っぴらに話されるほど人々に知られているのかと思うと今|更《さら》のように驚かないではいられないのだったが、しかし考えてみれば勿論それは無理のない話で、今更それに驚くというのはやはり自分が平常
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