楔、悪い病気の疑いが彼に打ち込まれた。以前見た夢の一部が本当になったのである。
 彼は往来で医者の看板に気をつける自分を見出すようになった。新聞の広告をなにげなく読む自分を見出すようになった。それはこれまでの彼が一度も意識してした事のないことであった。美しいものを見る、そして愉快になる。ふと心のなかに喜ばないものがあるのを感じて、それを追ってゆき、彼の突きあたるものは、やはり病気のことであった。そんなとき喬は暗いものに到るところ待ち伏せされているような自分を感じないではいられなかった。
 時どき彼は、病める部分を取出して眺めた。それはなにか一匹の悲しんでいる生き物の表情で、彼に訴えるのだった。

 三

 喬はたびたびその不幸な夜のことを思い出した。――
 彼は酔っ払った嫖客《ひょうきゃく》や、嫖客を呼びとめる女の声の聞こえて来る、往来に面した部屋に一人坐っていた。勢いづいた三味線や太鼓の音が近所から、彼の一人の心に響いて来た。
「この空気!」と喬《たかし》は思い、耳を欹《そばだ》てるのであった。ゾロゾロと履物《はきもの》の音。間を縫って利休が鳴っている。――物音はみな、あるもののため
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