《うつせみ》は道の上に失われ鈴の音だけが町を過るかと思われた。またある時それは腰のあたりに湧《わ》き出して、彼の身体の内部へ流れ入る澄み透った溪流のように思えた。それは身体を流れめぐって、病気に汚れた彼の血を、洗い清めてくれるのだ。
「俺はだんだん癒《なお》ってゆくぞ」
コロコロ、コロコロ、彼の小さな希望は深夜の空気を清らかに顫わせた。
六
窓からの風景はいつの夜も渝《かわ》らなかった。喬にはどの夜もみな一つに思える。
しかしある夜、喬は暗《やみ》のなかの木に、一点の蒼白《あおじろ》い光を見出した。いずれなにかの虫には違いないと思えた。次の夜も、次の夜も、喬はその光を見た。
そして彼が窓辺を去って、寝床の上に横になるとき、彼は部屋のなかの暗にも一点の燐光《りんこう》を感じた。
「私の病んでいる生き物。私は暗闇のなかにやがて消えてしまう。しかしお前は睡らないでひとりおきているように思える。そとの虫のように……青い燐光を燃《もや》しながら……」
底本:旺文社文庫『檸檬・ある心の風景』
1972(昭和47)年12月10日初版発行
1974(昭和49)年第4刷
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