んなことが思われた。
 一方には闇のなかにきわだって明るく照らされた一つの窓が開いていた。そのなかには一人の禿顱《はげあたま》の老人が煙草盆を前にして客のような男と向かい合っているのが見えた。しばらくそこを見ていると、そこが階段の上り口になっているらしい部屋の隅から、日本髪に頭を結った女が飲みもののようなものを盆に載せながらあらわれて来た。するとその部屋と崖との間の空間がにわかに一揺れ揺れた。それは女の姿がその明るい電灯の光を突然|遮《さえぎ》ったためだった。女が坐って盆をすすめると客のような男がぺこぺこ頭を下げているのが見えた。
 石田はなにか芝居でも見ているような気でその窓を眺めていたが、彼の心には先の夜の青年の言った言葉が不知不識《しらずしらず》の間に浮かんでいた。――だんだん人の秘密を盗み見するという気持が意識されて来る。それから秘密のなかでもベッドシーンの秘密が捜したくなって来る。――
「あるいはそうかもしれない」と彼は思った。「しかし、今の自分の眼の前でそんな窓が開いていたら、自分はあの男のような欲情を感じるよりも、むしろもののあわれと言った感情をそのなかに感じるのではなかろうか」
 そして彼は崖下に見えるとその男の言ったそれらしい窓をしばらく捜したが、どこにもそんな窓はないのであった。そして彼はまたしばらくすると路を崖下の町へ歩きはじめた。

   4

「今晩も来ている」と生島は崖下の部屋から崖路の闇のなかに浮かんだ人影を眺めてそう思った。彼は幾晩もその人影を認めた。そのたびに彼はそれがカフェで話し合った青年によもやちがいがないだろうと思い、自分の心に企らんでいる空想に、そのたび戦慄を感じた。
「あれは俺の空想が立たせた人影だ。俺と同じ欲望で崖の上へ立つようになった俺の二重人格だ。俺がこうして俺の二重人格を俺の好んで立つ場所に眺めているという空想はなんという暗い魅惑だろう。俺の欲望はとうとう俺から分離した。あとはこの部屋に戦慄と恍惚《こうこつ》があるばかりだ」

 ある晩のこと、石田はそれが幾晩目かの崖の上へ立って下の町を眺めていた。
 彼の眺めていたのは一棟の産科婦人科の病院の窓であった。それは病院と言っても決して立派な建物ではなく、昼になると「妊婦預ります」という看板が屋根の上へ張り出されている粗末な洋風家屋であった。十ほどあるその窓のあるものは明るくあるものは暗く閉《と》ざされている。漏斗型《じょうごがた》に電燈の被《おお》いが部屋のなかの明暗を区切っているような窓もあった。
 石田はそのなかに一つの窓が、寝台を取り囲んで数人の人が立っている情景を解放しているのに眼が惹《ひ》かれた。こんな晩に手術でもしているのだろうかと思った。しかしその人達はそれらしく動きまわる気配もなく依然として寝台のぐるりに凝立《ぎょうりつ》していた。
 しばらく見ていた後、彼はまた眼を転じてほかの窓を眺めはじめた。洗濯屋の二階には今晩はミシンを踏んでいる男の姿が見えなかった。やはりたくさんの洗濯物が仄《ほの》白く闇のなかに干されていた。たいていの窓はいつもの晩とかわらずに開いていた。カフェで会った男の言っていたような窓は相不変《あいかわらず》見えなかった。石田はやはり心のどこかでそんな窓を見たい欲望を感じていた。それはあらわなものではなかったが、彼が幾晩も来るのにはいくらかそんな気持も混じっているのだった。
 彼が何気《なにげ》なくある崖下に近い窓のなかを眺めたとき、彼は一つの予感でぎくっとした。そしてそれがまごうかたなく自分の秘《ひそ》かに欲していた情景であることを知ったとき、彼の心臓はにわかに鼓動を増した。彼はじっと見ていられないような気持でたびたび眼を外《そ》らせた。そしてそんな彼の眼がふと先ほどの病院へ向いたとき、彼はまた異様なことに眼を瞠《みは》った。それは寝台のぐるりに立ちめぐっていた先ほどの人びとの姿が、ある瞬間一度に動いたことであった。それはなにか驚愕《きょうがく》のような身振りに見えた。すると洋服を着た一人の男が人びとに頭を下げたのが見えた。石田はそこに起こったことが一人の人間の死を意味していることを直感した。彼の心は一時に鋭い衝撃をうけた。そして彼の眼が再び崖下の窓へ帰ったとき、そこにあるものはやはり元のままの姿であったが、彼の心は再び元のようではなかった。
 それは人間のそうしたよろこびや悲しみを絶したある厳粛な感情であった。彼が感じるだろうと思っていた「もののあわれ」というような気持を超した、ある意力のある無常感であった。彼は古代の希臘《ギリシャ》の風習を心のなかに思い出していた。死者を納《い》れる石棺《せっかん》のおもてへ、淫《みだ》らな戯れをしている人の姿や、牝羊《めひつじ》と交合している牧羊神を彫りつけたりした希臘《ギリシャ》人の風習を。――そして思った。
「彼らは知らない。病院の窓の人びとは、崖下の窓を。崖下の窓の人びとは、病院の窓を。そして崖の上にこんな感情のあることを――」



底本:旺文社文庫『檸檬・ある心の風景』
   1972(昭和47)年12月10日初版発行
   1974(昭和49)年第4刷
入力:j.utiyama
校正:多村栄輝
1998年11月17日公開
1999年8月22日修正
青空文庫作成ファイル:
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