なく、国へは奔走中と言ってその日その日をまったく無気力な倦怠で送っている人間であった。彼はもう縦のものを横にするにも、魅入られたような意志のなさを感じていた。彼が何々をしようと思うことは脳細胞の意志を刺戟しない部分を通って抜けてゆくのらしかった。結局彼はいつまで経ってもそこが動けないのである。――
主婦はもう寝ていた。生島はみしみし階段をきしらせながら自分の部屋へ帰った。そして硝子《ガラス》窓をあけて、むっとするようにこもった宵の空気を涼しい夜気と換えた。彼はじっと坐ったまま崖の方を見ていた。崖の路は暗くてただ一つ電柱についている燈がそのありかを示しているに過ぎなかった。そこを眺めながら、彼は今夜カフェで話し合った青年のことを思い出していた。自分が何度誘ってもそこへ行こうとは言わなかったことや、それから自分が執《しつ》こく紙と鉛筆で崖路の地図を書いて教えたことや、その男の頑《かたく》なに拒んでいる態度にもかかわらず、彼にも自分と同じような欲望があるにちがいないとなぜか固く信じたことや――そんなことを思い出しながら彼の眼は不知不識《しらずしらず》、もしやという期待で白い人影をその闇のなかに探しているのであった。
彼の心はまた、彼がその崖の上から見るあの窓のことを考え耽《ふけ》った。彼がそのなかに見る半ば夢想のそして半ば現実の男女の姿態がいかに情熱的で性欲的であるか。またそれに見入っている彼自身がいかに情熱を覚え性欲を覚えるか。窓のなかの二人はまるで彼の呼吸を呼吸しているようであり、彼はまた二人の呼吸を呼吸しているようである、そのときの恍惚《こうこつ》とした心の陶酔を思い出していた。
「それに比べて」と彼は考え続けた。
「俺《おれ》が彼女に対しているときはどうであろう。俺はまるで悪い暗示にかかってしまったように白《しら》じらとなってしまう。崖の上の陶酔のたとえ十分の一でも、何故彼女に対するとき帰って来ないのか。俺は俺のそうしたものを窓のなかへ吸いとられているのではなかろうか。そういう形式でしか性欲に耽《ふけ》ることができなくなっているのではなかろうか。それとも彼女という対象がそもそも自分には間違った形式なのだろうか」
「しかし俺にはまだ一つの空想が残っている。そして残っているのはただ一つその空想があるばかりだ」
机の上の電燈のスタンドへはいつの間にかたくさん虫が集まって来ていた。それを見ると生島は鎖をひいて電燈を消した。わずかそうしたことすら彼には習慣的な反対――崖からの瞰下景《かんかけい》に起こったであろう一つの変化がちらと心を掠めるのであった。部屋が暗くなると夜気がことさら涼しくなった。崖路の闇もはっきりして来た。しかしそのなかには依然として何の人影も立ってはいなかった。
彼にただ一つの残っている空想というのは、彼がその寡婦と寝床を共にしているとき、ふいに起こって来る、部屋の窓を明け放してしまうという空想であった。勿論彼はそのとき、誰かがそこの崖路に立っていて、彼らの窓を眺め、彼らの姿を認めて、どんなにか刺戟を感じるであろうことを想い、その刺戟を通して、何の感動もない彼らの現実にもある陶酔が起こって来るだろうことを予想しているのであった。しかし彼にはただ窓を明け崖路へ彼らの姿を晒《さら》すということばかりでもすでに新鮮な魅力であった。彼はそのときの、薄い刃物で背を撫でられるような戦慄を空想した。そればかりではない。それがいかに彼らの醜い現実に対する反逆であるかを想像するのであった。
「いったい俺は今夜あの男をどうするつもりだったんだろう」
生島は崖路の闇のなかに不知不識《しらずしらず》自分の眼の待っていたものがその青年の姿であったことに気がつくと、ふと醒《さ》めた自分に立ち返った。
「俺ははじめあの男に対する好意に溢れていた。それで窓の話などを持ち出して話し合う気になったのだ。それだのに今自分にあの男を自分の欲望の傀儡《かいらい》にしようと思っていたような気がしてならないのは何故だろう。自分は自分の愛するものは他人も愛するにちがいないという好意に満ちた考えで話をしていたと思っていた。しかしその少し強制がましい調子のなかには、自分の持っている欲望を、言わば相手の身体にこすりつけて、自分と同じような人間を製造しようとしていたようなところが不知不識にあったらしい気がする。そして今自分の待っていたものは、そんな欲望に刺戟されて崖路へあがって来るあの男であり、自分の空想していたことは自分達の醜い現実の窓を開けて崖上の路へ曝《さら》すことだったのだ。俺の秘密な心のなかだけの空想が俺自身には関係なく、ひとりでの意志で著《ちゃく》々と計画を進めてゆくというような、いったいそんなことがあり得ることだろうか。それともこんな反省すらもちゃ
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