まって来ていた。それを見ると生島は鎖をひいて電燈を消した。わずかそうしたことすら彼には習慣的な反対――崖からの瞰下景《かんかけい》に起こったであろう一つの変化がちらと心を掠めるのであった。部屋が暗くなると夜気がことさら涼しくなった。崖路の闇もはっきりして来た。しかしそのなかには依然として何の人影も立ってはいなかった。
 彼にただ一つの残っている空想というのは、彼がその寡婦と寝床を共にしているとき、ふいに起こって来る、部屋の窓を明け放してしまうという空想であった。勿論彼はそのとき、誰かがそこの崖路に立っていて、彼らの窓を眺め、彼らの姿を認めて、どんなにか刺戟を感じるであろうことを想い、その刺戟を通して、何の感動もない彼らの現実にもある陶酔が起こって来るだろうことを予想しているのであった。しかし彼にはただ窓を明け崖路へ彼らの姿を晒《さら》すということばかりでもすでに新鮮な魅力であった。彼はそのときの、薄い刃物で背を撫でられるような戦慄を空想した。そればかりではない。それがいかに彼らの醜い現実に対する反逆であるかを想像するのであった。
「いったい俺は今夜あの男をどうするつもりだったんだろう」
 生島は崖路の闇のなかに不知不識《しらずしらず》自分の眼の待っていたものがその青年の姿であったことに気がつくと、ふと醒《さ》めた自分に立ち返った。
「俺ははじめあの男に対する好意に溢れていた。それで窓の話などを持ち出して話し合う気になったのだ。それだのに今自分にあの男を自分の欲望の傀儡《かいらい》にしようと思っていたような気がしてならないのは何故だろう。自分は自分の愛するものは他人も愛するにちがいないという好意に満ちた考えで話をしていたと思っていた。しかしその少し強制がましい調子のなかには、自分の持っている欲望を、言わば相手の身体にこすりつけて、自分と同じような人間を製造しようとしていたようなところが不知不識にあったらしい気がする。そして今自分の待っていたものは、そんな欲望に刺戟されて崖路へあがって来るあの男であり、自分の空想していたことは自分達の醜い現実の窓を開けて崖上の路へ曝《さら》すことだったのだ。俺の秘密な心のなかだけの空想が俺自身には関係なく、ひとりでの意志で著《ちゃく》々と計画を進めてゆくというような、いったいそんなことがあり得ることだろうか。それともこんな反省すらもちゃ
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