『新潮』十月新人號小説評
梶井基次郎

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【テキスト中に現れる記号について】

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     子を失ふ話 (木村庄三郎氏)

 書かれてゐるのは優れた個人でもない、ただあり來りの人間である。それらが不自然な關係の下に抑壓された本能を解放しようとして苦しむ。作者は客觀的な態度で個々の人物に即し個々の場面を追ひつゝ書き進んでゐる。作者は人物の氣持や場面を近くに引付けてヴイヴイツドに書くことに長じてゐる人であるが、この作品ではそれを引き離して書いてゐる。そしてその手法が澄んでゐるためか「人間の持つ悲しさ」といふやうなものが背後に響いてゐる。どうにもならないといふ感じである。恐らくこの作品はこれでおしまひなのではなからうと思はれる。どう見てもあそこで完結させることは出來ない。また小さいことではあるが「けちな放蕩」と書いてある。けちなといふやうな價値感情を含んだ言葉はこの作品の緊りを傷けるものである。この作品に於て私は作者の新なる沈潛を感じる。そしてそれはいゝ結果になつてあらはれてゐる。が、それは在來のものゝ綜合であり完成であつて、新しい境地へは踏出してゐない。在來の氏に感じてゐた私の不滿は、だからまだ滿されてはゐない。この完成が終れば氏はその方へ出て行くのであらう。私はそれを期待する。

     N監獄懲罰日誌 (林房雄氏)

 林氏に對する私の豫備知識は貧弱である。いつかの新小説にのつたものしか讀んでゐない。また文藝戰線の人々やその文學論にも最近の關心である。そんなことがわかつてからとも思ふが、まあ思つたまゝを云ふ。
 伯父の急激な對蹠的な轉向を輪廓づけた、その圖形が妥當であるかないか、それは問題にしようとは思はない。たゞこの圖形はそれ自身が立派な意義を持つものであることを認める。然しこの圖形が強い力で迫つて來るためにはもつと肉付けが必要であると思ふ。末尾の言葉で作者もそれを認めてゐるやうに思へるが、それ以上作者が美しい放浪者の心とか懷疑者の心とか金鑛とか漠然とした言葉を用ひてゐるためなのではなからうか。
 懲罰日誌そのものゝなかには囚人の悲慘がユーモアに包まれて寫されてゐる。その
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