書き下ろされた爭議臺本では決してない。これは推稱さるべきものである。

     移住する彼の家 (本庄陸男氏)

 讀み憎い作品だ。
 例へば「川向ひの知り合ひに、みさは子供を連れて同居を情にかけられた。」
「學校では、藪睨みした。」など、讀んでなだらかに意味の掴めない地の文が隨所にある。讀み憎いもう一つの原因は方言であるが、これはかまはないとして、作者はどうしてこのやうに晦澁な地の文を書くのか了解に苦しむ。方言と地の文との緊密な組み合はせを企ててゐる努力が感じられないことはないが、これは「手前味噌」の表現といふものである。一種の單純化を志してゐるが、非效果的だ。變テツもないデイテイルを、無意味に捻つて見せたにとどまつてゐる。そのため事件の推移などに關する、肝腎な部分までが、そのなかへ埋沒し勝ちなのは、甚だ當を得ない。
 題材はある小作人の一家が先祖代々耕して來た土地を住み切れず、カラフトへ移住してゆく顛末を書いたのであるが、その晦澁を讀みこなせば描寫は甚だ通一遍で、眞に農民の生活のなかから書かれたものとしては首肯し難いものがある。
 しかし使はれた方言の效果が、この作品のレアリズムに役立つてゐることは認めなければならない。
 次に「街」西澤隆二氏の續きものであるから批評は完成を待つてやることにする。


   『文藝戰線』


     返される包 (細田源吉氏)

 凡作。これは小店員の話であるが、同じやうに中番頭のものが六月號の文章倶樂部に出てゐたが、その方がずつとよかつた。近江商人の店などでは、新潟あたりから小僧をやとひ番頭にしてやるといふ條件でながい間の奉公を勸めさせ、やがてそれが相當の年配になると、酒や女で店をしくじるやうに仕向けて、結局店から追つ放つてしまふといふことが、常套的に行はれてゐるさうである。文章倶樂部のものはさうした資本家惡の犧牲になる一人の中番頭のなんともならない境遇が實に丹念にかけてゐた。それに比べてこれはあまりに凡作だ。平凡なことを書くのもいいがそれがなにかの意味で見直されてゐなければ、結局意味のない退屈なものになつてしまふのではないだらうか。

     荒療治 (山本勝治氏)

 ある港町の沖仲仕達を組織化しようとしてゐる一人のコンミユニストが、大事な仕事を前にして自分の固い決意の弛緩をふと意識する。そして以前やはりさうした時に
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