れた言葉でも明かだが、失つた記憶が生き返つて來るのはこんな風に全然他力で偶然で、そんな偶然が生涯にいくらあることか、われわれはそんな偶然をすつかり逃してしまはないために際限もなく待つてゐるといふ譯にはいかないので、次には死といふもう一つの偶然が僕達をさらつていつてしまふと感慨を洩らしてゐる所など、いかにも過去の思ひ出のみに生きたプルウストらしく僕達の感慨を強ひるのだ。しかしこれはまた一方、題材を狹い心内の世界に限りながら何册もの大作を書いたプルウストの意氣込みとも見ていいので、彼がどんなに尻を落付けてこの回想を綴らうとしてゐるかがわかるのだ。實際プルウストの尻の落ち付け方はたいしたもので、例へば「自分は叔父の以前ゐた部屋の方へ歩いて行つた」と書くとすると次はその叔父さんのことになり、芝居のことになり、女優のことになり、僕達がもう夙つくに前のひつかかりを忘れてしまつた頃になつてひよつくりまた部屋のことに歸つて來るといふ風で、讀む方でもよほどさういふところを氣をつけて讀まないとコンテイニユイテイを失つてしまつて面白くなくなつてしまふ。しかしまあ全體の構成がさういふ風にして出來てゐるので、それが回想といふもののとる最も自然な形態にはちがひないのだ。たとへて云つて見れば、田舍のお婆さんが病院へ來て自分の病氣を醫者に話してゐるときの説話法のやうなもので、それがまた最もインテイメイトな話し方でもあるのだ。實際このインテイメイトなプルウストの話し方は佛蘭西人の生活や生活感情と云つたものを、これまで僕達が佛蘭西の小説を讀んで親しんでゐたより以上に、よりリアルに、僕達に近づけたので、僕達はさう云つた生活のデイテイルに限りのない親しさを感じる一方、またこれまでにない拒絶の感情をもうけとるのだ。僕は一度ヴアイオリン彈きのクライスラーが舞臺にあらはれたのを見て、まるで狼が洋服を着て出て來たやうな大變「エトランジエ」の感じを起したことがあるが、こんどの感じもそれで、プルウストが彼の祖父さんや祖母さんをより生き生きと書けば書くほどその同じ「エトランジエ」の姿がくつきりして來る。このことはまた彼等の生活の敍述が必然僕達に縁のない佛蘭西人の信仰に固有な聖人の名だとか、教會の建物のこまごました部分の名だとか、さう云つたものの非常に多くを伴つて來ることからでも起り得るのだとも思ふ。
 プルウストの文章
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