いことではない。
彼女の水々しい色白の丸顔とあの声を聴いていると、生れが明治六年だとはどうしても嘘のような気がする。来るたびに若くなって来るとは御定連《ごじょうれん》でさえも洩らす讃美である。彼女の生活が、芸術のためによって生きる意義を見出《みいだ》すとき、彼女が永遠に若き生命の所有者であることを認めなければなるまい。私は思う、彼女はこの後ますます若くなるであろうという事を。そして彼女の芸はますます堂に入るであろうということを。
呂昇の日常は、恒《つね》におだやかなものであるという。彼女の心静かに住みなす家には、召使いの一両人が、彼女の思念を乱さぬようにとつつましやかに仕えているという事である。そして彼女は、たった一人の息子《むすこ》とも離れて、全く孤独の芸術郷に暮している。彼女は信仰のかたい聖徒《クリスチャン》であるという。当今《いま》こそ彼女に物質の憂いはないが、かなり売出しのころには悲惨を嘗《な》めたのであった。
私はすこしばかり彼女の経歴の断片を知っているが、彼女は名古屋に生れ永田なかというのが本名である。父は尾州《びしゅう》家の藩士であったが維新後塩物問屋をいとなんでいるうち彼女の十一歳のおりに病死してしまった。その後は母の手一つに養育され常磐津《ときわず》などをならっていた。その頃から声のよいのを褒《ほ》められていたが、彼女の生母よりも一人の叔父《おじ》が我事のように悦んで、自分の好きな浄瑠璃《じょうるり》を一くさりずつ慰み半分におしえていた。その叔父さんの友達に浪越《なごし》太夫という――後に師匠の名を買って、五代目土佐太夫になった人である。芸はさほど巧《うま》くはなかったそうであるが、弟子には彼女のほかに女子では竹本|小土佐《こどさ》が名をなしている――人があって、ある日訪れて来たおり、彼女は例の慰み半分に叔父さんから稽古《けいこ》されている最中であった。莨《タバコ》を喫《の》んでまっているうちに「是非この子を仕込んで見たい」と彼れは思ってしまった。
その相談を受けると誰れよりもさきに叔父さんが嬉しがってしまって、彼女の十三の時から浪越太夫の弟子にさせた。間もなく彼女は仲路《なかじ》という名がついて寄席《よせ》の高座へ出ることになった。そうこうする間に十五歳の春は来た。そして綾之助とはあまりに相違する悲しい恋をささげられた。彼女の十五の春を奪ったのは、彼女のためにかなり尽し入揚《いれあ》げた紳士である。紳士であると思えばこそ世心《よごころ》知らぬ彼女もしたがっていたのであろうが、長い月日のうちには素振《そぶ》りのあやしげなのが仲間うちから噂《うわさ》されるようになった。その紳士が前科者だと知れると、一座するものからも疎《うと》んぜられるようになってしまった。
彼女の人生の出発点にはそうした痛手があった。彼女の美貌《びぼう》が彼女を悲運におとしたのである。彼女はその心のいたでを癒《いや》すには、全力をそそいで芸の道にまっしぐらとならなければならないと思った。十九歳ごろには、芸の方で彼女を顧みるものもなかったのである。小土佐と一緒に東京へと志望したが、も一修業してから来いと突離《つきはな》された彼女は、若き胸中に、鬱勃《うつぼつ》たる芸の野心と、悲しい心の傷《いた》みとに戦いながら大阪へ出て呂太夫《ろだゆう》に師事した。その当時の大阪は摂津大掾《せっつだいじょう》がまだ越路《こしじ》の名で旭日《あさひ》の登るような勢いであり、そのほかに弥津《やつ》太夫、大隅《おおすみ》太夫、呂太夫の錚々《そうそう》たるがあり、女義には東猿《とうえん》、末虎《すえとら》、長広《ながひろ》、照玉《てるぎょく》と堂々と立者《たてもの》が揃《そろ》っていた。さはあれ、呂昇はよき師をとり、それに一心不乱の勤勉と、天性の美音とが、いつまでも駈出《かけだ》しの旅烏《たびがらす》にしておかなかった。床本《ゆかほん》とお弁当とをもって、文楽座に通うのを毎日の仕事としていた他意なき熱心さを、大阪第一流の女義の定席《じょうせき》、播重《はりじゅう》の主人にみとめられたのが出世のはじまりとなった。めきめきと売出した時に、播重の手から八百円の手切れ金を立替えて、不思議な紳士とも手を断《き》る事が出来たが、しかしながらまた一方には、播重に自由を束縛されてしまいもした。
弱きは女の心である。一方を逃《のが》れようとしてまたそこに桎梏《しっこく》の枷《かせ》を打たれてしまった。それからの四、五年は播重と呂昇との暗闘であった。呂昇は共楽会という南地《なんち》の演舞場に開催される、第一流の群れに投じようとし、播重は自分の席の専属にしてしまおうと、心までも肉体と共に自由にしようとした。彼女は漸《ようや》く自己の新生面を開こうとしたおりに、こういう大きな掌《てのひら》に握りつぶされてしまったので、世の中を悲観しないわけにはゆかなかった。彼女はもう何もかも一切のわずらわしさを捨て、故郷に隠遁《いんとん》してしまおうと決心したが、その心持ちを知る人に慰藉《いしゃ》されて思い直し、末虎、照玉と共に旗上げをして鬱《うつ》をなぐさめた。けれどその、苦悩から生れた貴い勇気も、直《すぐ》に阻《はば》むような悪いことがつづいた。時運の来ぬということは仕方のないもので、殊勝な彼女らの旗上げは半年目で火災に逢い、一座は三味線も見台《けんだい》も、肩衣《かたぎぬ》もみんな焼失してしまった。過度の神経衰弱におかされ弱まった心は、またしても故郷に埋もれてしまおうとしたが、九州、中国と巡業したのち思いきって東京へと乗出した。
呂昇の上京は、いまこそ来ぬうちから待兼《まちかね》られるが、廿五歳で出て来たおりには十銭の木戸で、それでも思ったほどの客足はなかったのである。横浜を打上げて帰阪すると、松の亭の席主が八百円の金を貸してくれたので播重と手を断つことになったのであった。けれどもまた、呂昇は松の亭からはなれることが出来なくなってしまった。
何処までいってもはてしのない旅――そういうふうにも見られた呂昇の生涯に大飛躍の時が来た。呂昇には三十を越してからやっと福運がめぐって来たのである。それまではよい給料をとりながらも八百円の高利がもとで松の亭にみんな吸われてしまっていたのであった。その後、呂昇が今日の呂昇となる動機に恋があったという事であるが、おしいことに私はこれを聞き洩らしている。
[#地から2字上げ]――大正八年三月――
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附記 昭和五年ごろ大阪に閑居、病を養っていたが、もはや再び肉声を聞かれぬ人となってしまった。
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底本:「新編 近代美人伝(上)」岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年11月18日第1刷発行
1993(平成5)年8月18日第4刷発行
底本の親本:「近代美人伝」サイレン社
1936(昭和11)年2月発行
初出:「婦人画報」
1919(大正8)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2007年4月10日作成
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