ならないというのではないが、いかにも穢苦《むさくる》しい感じを与えられた。下卑《げび》ていたこともいなまれなかった。
古い流行のひとつとして、以前女義太夫――ことに綾之助の若盛りにはドウスル連というものの盛んであったことをきいた。しかもその多くは年少気鋭の学生連であったそうで、いまそうした年頃の、青春の人は多く浅草の歌劇団にと行き、高級の人は音楽会を待ちかねて争ってゆくようである。その夜も、青年は一人も見受けなかったといってよいほどであった。時代がそうなったのかも知れないが、義太夫を聴く人が中年以上のものに限られて来たようになったというのも詭弁《きべん》ではないと思った。無理な道徳や、不条理な義理を、苦しい人情としていた時代は過ぎつつあるのであった。そしてまた語りものの一段のうちには、たしかに好い個所がありながら、何とやら取ってつけたような継目が多くあるのを感覚の鋭い近代人は同感しなくなったのではなかろうか。女義太夫の衰退とばかりは見られないのではなかろうかと思われた。とはいえ、綾之助の技芸《げい》はそれらの聴衆をすこしの間に引緊《ひきし》めてしまった。座席もないほどにつまって、ごうごう[#「ごうごう」に傍点]としていた人たちも語りもののなかへ吸込まれていって、ひっそりとなるまでになった。聴衆は綾之助の名と、綾之助の芸から、すこしでも多く、期待した感興《もの》を得ようとした。
――あのときの綾之助の語り口は堅実であったと、耳の底にのこる記憶を、玩味《がんみ》するように思出していた。彼女の「野崎村」は艶《つや》にとぼしかったといえるかも知れなかったが、野梅《やばい》のようなお光と、白梅のような久松と、淡《うす》紅梅のお染とがよく語りわけられて、そのうちにもお染はともすると、はすはになりがちであるのをしっとりと品よく、大どころの秘蔵娘を彷彿《ほうふつ》させたと、あのきりり[#「きりり」に傍点]とした綾之助の面影まで思いうかべるのだった。そのうちにまた鶯のことがかえってくると、今度はそれに織りまぜて、呂昇《ろしょう》を久しく聴かないなと思ったりした。
豊竹呂昇《とよたけろしょう》――ほんとにあの女《ひと》こそ円転滑脱な、というより魅力をもった声の主だ。彼女の顔かたちが豊艶なように、その肉声も艶美だ。目をつぶって聴いていると、阪地の人特有な、艶冶《えんや》な媚《こび
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