つおん》のうちに聴くことを得意とする。女性の胸に燃えつつある自由思想は、(化粧)(服装)(装身)という方面の伝統を蹴り去り、外形的に(破壊)と(解放)とを宣告し、ととのわない複雑、出来そくなった変化、メチャメチャな混乱、――いかにも時代にふさわしい異色を示している――と語っている。
 その時代精神の中枢は自由であった。束縛は敵であり、跳躍は味方だった。各自の気分によって女性はおつくりをしだした。美の形式はあらゆる種類のものが認識され、その奔放な心持ちは、ゆきつくところを知らずにいまもなお混沌《こんとん》としてつづいている。
 この混沌たる時代粧よ。
 改革の第一歩は勇気に根ざす、いかに馴化《じゅんか》された美でも、古くなり気が抜けては、生気に充《み》ちた時代の気分とは合わなくなってしまう。混沌たる中から新様式の美は発しる。やがて、そこから、新日本の女性美は現わされ示されるであろう。

 古《いにしえ》から美女は京都を主な生産地としていたが、このごろ年ごとに彼地へ行って見るが、美人には一人も逢《あ》わなかったといってよいほどであった。一世紀前位までは、たしかに、平安朝美女の名残りをとどめていたのであろうが、江戸のいんしんは、彼地から美女を奪ったといえる。徳川三百年、豊麗な、腰の丸み柔らかな、艶冶《えんや》な美女から、いつしか苦味をふくんだ凄艶《せいえん》な美女に転化している。和歌よりは俳句をよろこび、川柳《せんりゅう》になり、富本《とみもと》から新内節《しんないぶし》になった。その末期《まつご》は、一層ヒステリックになった。
 そのヒステリーが、ひとつ、ガチャンと打破したあとに、明治美人は来た。その初期は、維新当時、男にも英雄的人物が多かった通り、美女もまた英雄型であった。と、いうのは、気宇のすぐれた女ばかりをいうのではない、眉《まゆ》も、顔だちも、はれやかに、背丈《せたけ》などもすぐれて伸々《のびのび》として、若竹のように青やかに、すくすくと、かがみ女の型をぬけて、むしろ反身《そりみ》の立派な恰好《かっこう》であった。
 上代《じょうだい》寧楽《なら》の文明は、輝かしき美麗な女を生んで、仏画に仏像に、その面影を残しとどめている。平安期は貴族の娘の麗わしさばかりを記している。鎌倉時代、室町《むろまち》のころにかけては、寂《さび》と渋味を加味し、前代末の、無情を観じた風
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