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女史の記録を読むと、明治廿四年――(一葉廿歳の時)十月十日に兄の家は財産差押えになるという通知をうけたくだりに、金三円|斗《ばか》りもあれば破産の不幸にも至るまいという書状から推《お》しても、杖《つえ》とも頼む男兄弟の、たよりにならなかったことがしれ、かえって妹たちの方が苦しいなかからその急を救った。
「家の方は私の稽古着《けいこぎ》を売ってもよいから」といって、親子の膏《あぶら》であり、血となる代《だい》の金四円を、母を車に乗せて夜中ではあれど届けさせた。
ある時は貧に倦《うん》じた老女の繰言《くりごと》とはいえ、
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「あな侘《わび》し、今五年さきに失《うせ》なば、父君おはしますほどに失なば、かゝる憂き、よも見ざらましを我一人残りとゞまりたるこそかへす/″\口をしけれ、我|詞《ことば》を用ひず、世の人はたゞ我れをぞ笑ひ指さすめる、邦《くに》も夏もおだやかにすなほに我やらむといふ処、虎之助がやらむといふ処にだにしたがはゞ何条ことかはあらむ、いかに心をつくりたりとて手を尽したりとて甲斐《かい》なき女の何事をかなし得らるべき、あないやいやかかる世を見るも否《いや》也」
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と朝夕に母に掻《かき》くどかれては、どれほどに心苦しかったであろう。おなじ年(廿六年四月十三日の記に)、
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母君|更《ふけ》るまでいさめたまふ事多し、不幸の子にならじとはつねの願ひながら、折ふし御心《みこころ》にかなひ難きふしの有《ある》こそかなし。
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とあるに知る事が出来る。
朝には買出しの包みを背負って、駄菓子問屋の者たちから「姐《ねえ》さん」とよばれ、午後には貴紳の令嬢たちと膝《ひざ》を交えて「夏子の君」と敬される彼女を、彼女は皮肉に感じもした。けれども恩師中島歌子は、一葉の夏子を自分の跡目をつぐものにしようとまで思っていたのであった。であればこそ、同門の令嬢たちも、一葉という文名|嘖々《さくさく》と登る以前にも、内弟子同様な身分である夏子を卑しめもしなかったのであろう。
ある時、女史は雨傘を一本も持たなかった。高下駄《あしだ》の爪皮《つまかわ》もなかった。小さい日和洋傘《ひよりがさ》で大雨を冒《おか》して師のもとへと通った。またある時は(新年のことであったと思う)晴着がないので、国子の才覚で羽
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