、淡路町《あわじちょう》になった。其処で父君を失ったので、その秋には悲しみの残る家を離れ本郷|菊坂町《きくざかちょう》に住居した。その後|下谷《したや》竜泉寺町に移った。俗に大音寺前《だいおんじまえ》という場処で、吉原の構裏《かまえうら》であった。一葉の家は京町《きょうまち》の非常門に近く、おはぐろ溝《どぶ》の手前側《てまえがわ》であったという。ここの住居の時分から、女史の名は高くなったのである、そして生活の窮乏も極に達していた。荒物店《あらものや》をはじめたのも此家《ここ》のことであれば、母上は吉原の引手茶屋で手のない時には手伝いにも出掛けた。女史と妹の国子とは仕立《したて》ものの内職ばかりでなく蝉表《せみおもて》という下駄《げた》の畳表《たたみおもて》をつくることもした。一葉女史のその家での書斎は、三畳ほどのところであったという。荒物店の三畳の奥で、この閨秀《けいしゅう》の傑作が綴《つづ》りだされようと誰が知ろう、それよりもまた、その文豪が、朝は風呂敷包みを背負って、自ら多町《たちょう》の問屋まで駄菓子を買出しにゆき、蝋燭《ろうそく》を仕入れ、羽織を着ているために嘲笑《ちょうしょう》されたと知ろうか。彼女の家から灯が暁近くなるまで洩《も》れるのは、彼女の創作のためばかりではなかった。あの、筆をもてば、倏忽《たちどころ》に想をのせて走る貴《とうと》い指さきは、一寸の針をつまんで他家の新春の晴着《はれぎ》を裁縫するのであった。半日に一枚の浴衣《ゆかた》を縫いあげるのはさして苦でもなかったらしいが、創作の気分の漲《みなぎ》ってくるおりでも、米の代、小遣《こづか》い銭のために齷齪《あくせく》と針をはこばなくてはならなかったことを想像すると、わびしさに胸が一ぱいになる。明治廿五年の正月には、元日ですら夜まで国子氏と仕立物をしていたという事を日記が語っている。
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国子当時|蝉表《せみおもて》職中一の手利《てきき》に成《なり》たりと風説あり今宵《こよい》は例より、酒|甘《うま》しとて母君大いに酔《よい》給ひぬ。
――片町といふ所の八百屋《やおや》の新|芋《いも》のあかきがみえしかば土産にせんとて少しかふ、道をいそげばしとど汗に成りて目にも口にもながれいるをはんけちもておしぬぐひ/\して――
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とあるのにもその生活の一片が見られる。
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